江戸漢詩 嵐山に遊ぶ
頼山陽と江馬細香が男女の仲になったとされる嵐山での花見の詩を紹介します。
「武景文、細香と同じく、嵐山に遊び、旗亭に宿す」
山色稍暝花尚明
綺羅分路各歸城
詩人故擬落人後
呼燭渓亭聽水聲
擬=ぎ、なぞらふ
(読み下し文)
山色稍(やや)瞑(くら)くして、花尚(なお)明らかなり。
綺羅(きら)、路を分かちて、各おの城に帰る。
詩人故(ことさ)らに人後に落ちんと擬(ほっ)し、
燭(しょく)を呼びて、渓亭に水声を聴く。
(現代語訳)
夕方になり山が暮れかけて、しかし花の辺りはまだ明るさが残っている時に、それぞれおめかしをした散歩の客たちが、自分の道に分かれて帰っていく。それを見送ってわざと遅れたふりをして、詩人はこのひと気の去った静かな黄昏を味わうために、料亭で灯火を部屋へとり寄せながら、窓の下の渓川の音に耳を傾ける。
タイトルの長い詩ですが、「嵐山に遊ぶ」という別の詩があるので、こちらと区別されます。この詩は七言絶句ですが、元々の詩は七言律詩で細香に与えたので江馬家蔵『山陽先生真蹟詩巻』に収められています。
七言絶句は『山陽詩鈔』に収録されるときに、ここに挙げたように改作されました。
山陽は旧友の武元登々庵(たけもととうとうあん:タイトルの武景文はあざな)と、初めて京都に訪ねてきた江馬細香とを連れて花見にでかけました。細香はこの時点では山陽に梨影という妻がいることを知らなかったようです。
登々庵は新婚の細君の手前山陽によってアリバイに使われたようです。
武元登々庵は少年時代から才能を発揮し神童と呼ばれ、柴野栗山に入門しました。後年蘭学も修めました。1810年に菅茶山、頼山陽と知り合います。登々庵は1767年生まれで山陽と歳は離れていますが、旧友と言えます。
(参考:門怜子 中村真一郎)