細野晴臣教室
昭和54年のことだったと思います。細野晴臣教室に参加しました。一般用の講座です。受講料を払えば誰でも聴けました。
週1か隔週か覚えていませんが、ぼくは3回ほど行きました。1回と2回はインドの映画音楽などの紹介です。レコードを聴かせてくれるんですが、ふーんそうかって感じでした。
細野晴臣は「HOSONO HOUSE」まではカントリー、フォークロック路線でしたが、「トロピカル・ダンディ」「泰安洋行」「はらいそ」とアルバムの傾向が変わってきていました。
はっぴいえんどのころからのファンは「トロピカル・ダンディ」以降はついていけなくなりました。どうなるんだろうとアルバムを買う人はいても複雑な気持ちでいたと思います。
3回目の講座はスタジオ見学ということで、田町のアルファスタジオに受講者たちは集まりました。
当時イエローマジックオーケストラが1枚目のアルバムを世に問うて、反響があったころです。
我々受講者はセカンドアルバムの録音現場を見学しました。セカンドアルバムといえば「東風」「ライディーン」などヒット曲を含んだYMOの名前が一般に知られるきっかけを作ったアルバムです。
ただYMOという呼ばれ方は初期はされていなくて、細野さんが「略してYMOなんつってw」と冗談で言ったことが、冗談からコマみたいに一般的になってしまいました。
スタジオはリラックスした雰囲気でした。差し入れにケンタッキーフライドチキンとか甘色(あの円錐形のパンです)が振る舞われました。
坂本龍一はほとんど喋らず席をゆずっても知らん顔するような態度でした。
細野さんは学校はどうしてる?とか話しかけてきます。
高橋幸弘はぼくのライターを借りてタバコに火をつけていました。ぼくはそのころまだタバコを吸っていました。知り合いの天ぷら屋の店名が刻印された赤い100円ライターをテーブルの上に置いていたのです。
みんながタバコを吸ったりチキンを食べた楕円形のテーブルの上にキーボードを持ってきて坂本が演奏し始めました。一応録音はしている様子でした。
細野さんの曲を再生する中、高橋がこれを聴くと眠くなると言いました。
やっぱり思った通り自由な個人主義のバンドだという印象を受けました。ですが、YMOには当時それほど興味が持てず教室をやめました。
YMOの中で好きなアルバムは「BGM」と「テクノデリック」です。