昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

送り火迎え火・盆灯籠・玉菊灯籠

 迎え火

 迎え火


 江戸では身分の高い武家や筋目の高い町家では、魂迎えをするために、各々の檀那寺へ行きます。墓前に灯火をささげ礼拝をして、まるで生きた人を迎えるように、家紋のついた弓張提燈をともして道の上を照らし、魂迎えをしました。
 一般の町家では、主人が着流し羽織姿で、家の者と一緒に玄関までお迎えをします。その際、門口では焙烙(ほうろく)の上に苧殻(おがら)をのせて焚きました。これを迎え火といいます。

 焙烙

 苧殻(おがら)


 滝沢馬琴は『羇旅漫録』に京都の迎え火を「凡精霊のむかひ火おくり火はみな加茂川へ出て麻がらに火を点ず。その宗旨によりて日限の遅速あり。盆中家々に挑灯、灯籠を出すこと江戸の如し。東山諸寺の高灯籠は星の如くしかり」と記しています。

 白張提灯


 新盆


 江戸では本来白張灯籠ですが、文政(1818~30)頃から池の小提灯や種々な形の灯籠を用い始めました。もっとも富家では嘉永(1848~54)頃になっても白張が主で、中流以下の家でも死者のあった年には白張を使っています。上下の花形は、紙を二重にしました。白のままを主として、六字の名号や南無妙法蓮華経などが書いたものもあります。




 玉菊灯籠
 享保(1716~36)頃、吉原の角町中万字屋に玉菊という気立てのやさしい遊女がいました。琴、三味線をよくし、ことに河東節の浄瑠璃を好んで弾いていたといいますが、酒好きがもとで、享保十一年(1726)三月二十九日に二十五歳で亡くなりました。

 玉菊灯籠
 その三周忌の追善にと、享保十三年七月、仲の町の茶屋では軒ごとに箱提灯を飾りました。これが新吉原玉菊灯籠の始まりです。


 翌年からは、切子灯籠、回り灯籠(廻り灯籠)などと、思い思いに趣向を凝らし善美をつくしたので、年を追うごとに華麗さを増しました。

 切子灯籠

 回り灯籠



 精霊棚は四方に葉のついた青竹を立て、周りは青杉葉で作った籬(まがき)で囲い中には真菰(まこも)を敷いて祖先の零牌及び仏像を安置しました。

 四隅の青竹は菰縄を張り渡し、それにささげ、芋、そうめんの類をかけました。『江戸見草』の精霊棚の絵は菰縄に粟、栗、萱(かや)、そうめん、米、柿がかけてあり「紅花の千たるを飾る」とあります。
 棚には蓮の葉を敷いてかたわらに牛馬四足に見立てた瓜、茄子を立てました。水を盛った器にみそはぎ草を浸して手向け、香花灯明を供え、夕方になると団子と茶をささげます。棚下には蓮を敷いて食物を置くこともありました。


 精霊流し


 ひょう燭
 盆灯籠、盆提灯には三都とも蠟燭を使わず、ひょう燭を用いました。これは灯心の代わりに木綿太糸を使ったものです。



 苧殻を焚いて送り火

 送り火


   (参考:中央公論新社)

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