昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

大正生まれの人々 続々

 母方の伯父(伯母の夫)は大正9年生まれですが、戦時中は大陸にいて戦後もシベリア抑留に遭いました。ソ連の湖に20日間浸かったまま戦友は次々と病死していったと聞きます。抑留されてからは、片言のロシア語で軍看護婦と懇意になり、物資を優遇してもらったそうです。伯父は生前ぼくと母と本郷のそば屋でロシア語の単語を教えてくれました。ロスキー、ヤポンスキー、ソルダット、ハラショなどです。
 やっと引き揚げてきて実家の文京区の家に着いたとき、土地を勝手に半分取られていました。ぼくらが本郷の伯父さんと呼んでいたのは昔、本郷區だったからです。東京は焼け野原だったので、関東のM市にたまたま就職し、伯母と出会って結婚したのです。伯母というのは肺けっかくで死んだ伯母の妹です。
 伯母は関東大震災の数日前に生まれて助かった人です。いまだに生きていて甥のぼくのほうが先に死ぬかもしれません(苦笑)。


 ある事情で知り合った初対面の小父さんと喫茶店で話したことがあります。その人は大正12年生まれですが、仙台二高という進学校出で、徴兵を遅らせるために、あわよくば召集を免れるために大学に進んだそうです。でも学徒動員で結局は戦争に行ったのですが、いい大学なので幹部候補で年上の部下といっしょに大きめの飛行機に乗り込みました。でも若いので年上の部下にいじめられたそうです。その飛行機は4、5人乗れるものだったらしく年若い幹部がいろいろと指示したんだろうと思います。

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