ミシェル・フーコー臨床医学の誕生
先日、嚥下検査を行った。研修医の青年が白衣姿でチューブを私の鼻の穴に通し、先にカメラが付いていたのか後で動画を見ながら説明を訊いた。
鼻の穴にいきなり通して後半は苦しくなったので、いいかげんにちょっと休ませてくれ、と声を出した。そうでもしないと医師たちはボーッとつっ立ってるだけでまさに木偶の坊のようだった。
研修医も若いくせに全然腰の力が無く中腰になれない。自分の鼻の位置に対して適した角度でなくなっていった。
まわりは嚥下の権威に忖度して意見も何も声をあげられない、無能の集まり。
医者はつっ立ってるだけだな、と私は声に出した。変わった患者もいるもんだと思ったかもしれない。
フーコーの『臨床医学の誕生』の終章のほうでは20世紀後半には医療の囲い込みによるゆがみを懸念する事柄が述べられている。
リタイアした後病気になったらさっさと死ぬのが不幸にならない道だと思う。周りに迷惑かけるし、お金もかかる。介護人材の不足。介護施設が充実しているとは言い難い。高齢者の医療費負担はもっと上げてもいい。一割負担は三割負担に三割負担は五割負担に。
50年後を見据えて安楽死制度を考えるのも現実味を帯びてきた。
自分が病気になってみてつくづく早く死にたいと思うようになった。
尊厳死などとかっこいい言葉でなくてもっと苦悩に満ちた訴えである。
そのためには若年層がもっと選挙に行くべきである。得票率が伸びれば若年層の負担が軽減しやすくなる。