昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

港区の街の雰囲気

 港区は独特ののどかさがあると思います。
 引っ越しばかりを経験しましたから、その区の特質というのは住んだらもちろん判りますが、区役所に行った時点で何となく雰囲気が違います。

 新宿区と渋谷区でも違います。区役所も渋谷区のほうがのんびりしていて開放感があります。住む環境によってもちろん雰囲気も違いますが、スーパーの客の空気感は肌で感じられます。引っ越す場合はスーパーで買物をしてみると意外な発見があるかもしれません。

 品川区はちょっと気ぜわしくマナーに問題ありなところが多いです。大田区は住んだことがないですが、街にはのどかさがあります。



 昭和30年代の港区はのどかで落ち着きがありました。世田谷や杉並の住宅街に行けばそれは落ち着きがあるのは想像できますが、赤坂は商店街においても落ち着きがあったと思います。昭和30年代ならよけいにそうです。
 意外に思われるかもしれませんが、赤坂の住民は見栄を張らず、落ち着きがあってお人好しです。バブルのころにうんと騙されて不動産を処分しなきゃいけなかった人もいると思います。
 前回の三田あたり、白金あたりもそうでしょうか。麻布はもちろんそうですが、前回書いたような、はっぴいえんどの「風街ろまん」が似合う街並み、路地があったと思います。



Frederic MOMPOU: Impresiones Intimas, No. 8 (Secreto)
 ( ↑ これはラローチャではありませんが、たまたま見つけた落ち着いた演奏です。)


 個人的にはフェデリコ・モンポウのピアノ曲「内なる印象」が昭和30年代の港区を想起させます。アリシア・デ・ラローチャの演奏がゆったりとしていて、子ども時代の路地で遊んでいた記憶を甦らせてくれるのです。

三田の界隈

 三田綱町のあたりを散歩したことがあります。


 日向坂(ひゅうがざか)を上っていく場合、その手前は麻布十番で二の橋を渡ることになります。左側は三田小山町というところです。20年近く前ですが何と路地には豆腐屋さんがポツンとありました。現在はどうなんでしょうか。


 坂を上るとオーストラリア大使館がありますが、三井倶楽部とかいいたたずまいですね。もう少し行くとイタリア大使館もあります。三田2丁目あたりです。



 別のルートで散歩したこともあります。天祖神社のある神明坂という小さな坂です。上りきったところに三井倶楽部とオーストラリア大使館が見えます。手前は竜原寺の敷地がありまして、昭和を思わせる水道管がありました。このあたりはアングルをいくつか変えて写真を撮りました。


 その時ふっと頭に浮かんだのは、はっぴいえんどの「風街ろまん」の風景でした。「風をあつめて」「夏なんです」とかです。「夏なんです」は実は群馬県だとどこかで読んだ気がしますが、昭和30年代の港区はのどかなたたずまいの記憶があります。




夏なんです(3人はっぴいえんど)




 赤坂生まれで赤坂育ちですが、港区という括りで言うと三田のこのあたりもむしろ港区の色合いは強いのではないかと思います。


 天祖神社をお参りして神明坂を下ったあたりはまったくありきたりの通りですが、昭和を想起させる空間があると思います。

港区のアパート

 表町のCマンションの1階は車が駐車できるスペースがありました。潜っていくと裏庭みたいなところに出ます。都会のオアシスみたいな子どもでも静寂に浸れる空間がありました。そのころから一軒家にない都会的な雰囲気に憧れる因子を植え付けられたような気がします。
 昭和30年代の映画の中の高峰秀子や田宮二郎の帰っていくアパートは青山や麴町にあったと思えます。
 日活「風船」(昭和31年)という映画のダンサー役北原三枝が住んでいたアパートも都心にありました。訪ねてくる二本柳寛は外人とすれ違います。アパートと言っても形態はマンションと変わりません。
 デザイナーでタレントの四方氏は上京して三田5丁目のマンションに住むのが憧れだし目標だったと語ったことがあります。昔は芝區三田豊岡町というところでした。
 港区的な空気を漂わせる地域は麻布や青山だけではありません。三田あたりも戦後港区ですから実際出かけてみると港区の空気を感じます。昭和30年代から千代田区(旧麴町區)や港区には都会的なアパート(マンション)がありました。

小石川 牛込

 昔の少年雑誌には漫画家の先生にお便りを出そう!なんてことがページの端に書いてありました。ファンレターですね。
 漫画家の住所まで書いてありました。何となく練馬区とか豊島区が多かったような印象があります。


 それと少年雑誌の出版社へハガキを出す場合、小石川局区内とか牛込局区内とか多かった気がします。
 今でも小石川の一部、旧牛込地域には出版社というか印刷工場が多いですね。少年マガジンの講談社は文京区音羽ですから昔から小石川局区内だったんでしょうか。


 前も書いたかもしれませんが、旺文社の座談会に出かけたことがあります。昭和42年ごろでした。市ヶ谷の駅からけっこう歩きました。
 今で言うところの牛込中央通りを上り牛込北町の交差点を越してさらに若干上り坂になります。狭い歩道を抜けると旺文社はありました。
 向かい側には東映動画が現在ありますが、当時あったかどうかは確認できません。


 旺文社の座談会には赤坂(丹後町)のIさんと当時練馬在住のKクンが一緒でした。戦争マンガがどうの少女マンガがどうのとか話した覚えがあります。記念のボールペンはもらったのかもらわなかったのか思い出せません。


 今なら判ります。旺文社の先は新潮社があります。矢来町です。東西線の「神楽坂」駅ができるまでは陸の孤島と呼ばれていたそうです。 
 矢来町なら神楽坂と言ったほうがわかりやすいと思います。
 隣接する横寺町には尾崎紅葉旧居跡とか、南榎町でしたか泉鏡花旧居跡がありますね。

麻布 飯倉 狸穴

 麻布と言えば荷風の偏奇館跡地を見に行ったことがあります。母の生前、麻布界隈を散歩し有名人を種に散策しました。
 偏奇館の場所はここに書くまで勘違いしていました。飯倉片町を過ぎて外苑東通りの路地を入った麻布狸穴町の鼠坂と植木坂の起点あたりと思い込んでいました。正しくは六本木一丁目なんですね。飯倉片町を曲がり行合坂を下って有名なピザ店のあたりから路地に入り、その時も道に迷ったかもしれません。実際にはもう少し先で路地に入るべきでした。
 偏奇館跡地なる記念碑ですか、写真も撮ったと思います。当時は麻布區市兵衛町一丁目6でした。逓信院の裏になります。現在は麻布郵便局とか麻布小学校が表の大通りにあります。作家の野坂昭如は郵便局の裏あたりに広めの土地を昔持っていたと語ったことがあります。
 大通りの向かいにロシア大使館がありますが、古い地図には蘇聯大使館となっています。散歩した後、飯倉片町の角の蕎麦屋さんで天ぷらそばを食べ、歩いたせいかたいそう美味かった記憶があります。
 六本木からこの界隈まで鳥居坂とか飯倉とか狸穴町とか80年代から90年代特にバブル期はよく聞かれた町名ですね。
 それより前、荷風は牛込區大久保余丁町にも住んだことがあり、現在のその場所は新宿区余丁町の出世稲荷の近くです。大ざっぱに言えば抜弁天の裏です。