昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

青山一丁目~権田原~慶応病院

 ぼくが3才ぐらいのころ父が自然気胸で倒れたことがありました。

 バスに乗って一番前の運転手さんのすぐ後ろに立っていたそうなんですが、バスの前を急にリアカーが通ったそうです。バスが急ブレーキをかけたので、父はしこたま胸を打ったんです。


 救急車で慶応病院に運ばれ今夜が山まで言われたのです。抗生物質を注入され命に別状は無かったのですが、個室の差額ベッドに入院しました。


 ぼくは母に手を引かれ青山一丁目の停留所まで歩き都電に乗りました。途中権田原を通り信濃町の慶応病院まで行きました。

 旧館の2階の奥から2番目の部屋と覚えていましたから、母の手を振り払って父の寝ている部屋に入りました。お付きの人は年配のHさんというオバサンでした。


 個室にはみかんが山と積まれていました。のどが渇いていたので「このみかんどうしよう」と遠回しに訊いたものです。


 前の年か前々年ぐらいに草月会館が建つのに、水道管をうちの庭の下を通させてくれと持ち掛けられていました。うちは当時の50万円の言い値で取引していました。


高橋是清公園に逃亡

 明日から幼稚園に通うという晩になって急に母親から「もう、おねしょしちゃダメよ」と言われました。
 それまで全然しつけが為されていないのに急にです。


 明朝おねしょしました。
 母親は裁断に使う黒くて大きな太刀ばさみを持ち出し、
「おちんちんを切ってやる」と言い出しました。


 これは大変だと思って縁側を伝って玄関の脇から門の外に裸足で逃げ出しました。


 夢中で走って、気づけば高橋是清公園に逃げこんでいました。公園の奥のほうはちょっとした林です。そこにじっとして母親に見つからないように、陽が傾くまで隠れていました。



 もう一生家には帰れないんだな、と思いました。



 でもちょっと家の様子を見に行こうと思って、夕方でしたが、公園の奥の階段を下りて路地に出て、ドイツ文化会館の道を魚屋Gの方へ小走りに行きました。


 薬研坂に出ました。八百屋やパン屋を横目で見ながら、そーっと表町の路地を覗いてみました。誰も歩いていません。


 印刷屋のKさん、Yさん、Sさん、Y子ちゃんの家の前を通って草月のアトリエやIさんちの路地のところを無事に通りました。もうすぐ我が家。


 家に着きましたが、玄関からは入れません。裏木戸をそーっと開けて家の中に入りました。


元赤坂の人々

 現在は元赤坂ですが、昔は傳馬町と言いました。一部表町でした。豊川稲荷のところがぎりぎり表町のようです。向かいの「とらや」も表町になると思います。


 実は昔も元赤坂というところはありました。青山御所、いわゆる東宮御所ですか。あそこが本来の元赤坂になります。


 I君とN君は傳馬町のほうの元赤坂に住んでいました。どちらも小学校から一緒です。I君とはK中学でも一緒でした。彼は順調に東大法学部を出て若いうちに弁護士になりました。どうやら事務所も赤坂周辺のようです。
 小学校のころぼくは彼のうちに一度だけ遊びに行ったことがあります。おかあさんがキャベツを煮ていてキャベツの匂いが記憶に残っています。


 N君の成績もトップクラスで特に算数が抜群にできました。40分のテストを20分ぐらいでこなし、いつも100点でした。彼は私立A中学に進み東大医学部を出て現在は大きな病院の院長さんになっています。


赤坂組

 幼稚園、小学校と同期で同じ組にはならなかったものの、赤坂の人はいます。


 赤坂3丁目、昔の住居表示だと赤坂新町でしょうか、料亭Mの娘さんです。幼稚園のころの集合写真を見ると幾分地味ですが、10年ぐらい前に同窓会でお会いした時はすっかり美人のマダムになっていました。ご両親は離婚されているそうで、料亭も現在はありません。
 同じ赤坂出身で小学校もいっしょでしたが、50にさしかかったころに初めて話すというのも不思議な感じでした。この方、中学からは私立のY学園でやはり小学校同期のコッペと同じです。


 そういえば、Hさんも赤坂出身で幼稚園、小中と同期でしたが、Hさんの住所も知らず(名簿が家の中で行方不明)普通のうちか料理屋さんか判りません。
 ただHさんと言うと赤坂で有名な方がいらっしゃるので関係があるかもしれません。屋号は「F」です。


幼稚園の人々 その3

 同期の赤坂組はN質店のN君がいました。先祖は赤坂の大元締めで氷川神社にも名前が刻まれています。M衛門という人です。残念ながらN君は昨年病気で亡くなりました。


 赤坂新町(現在は5丁目)の赤坂通り沿いにあった果物屋のA君もいっしょでした。勉強ができてプライドも高かったです。


 丹後町の文房具屋のT君も同期でした。バブルのころ地上げ屋の相当な誘惑があったそうですが、頑として赤坂の地を守り抜きました。


 赤坂田町のタイヤ店のT君も同期でした。彼は跡継ぎに相応しい名前でした。


 一ツ木町のY君は小中といっしょでしたが、幼稚園は中ノ町へ通っていたそうです。でも現在その幼稚園は檜町に当たる場所にあります。作家の里見弴が昔通っていたという情報もあります。


 檜町といえば現在は赤坂小学校がありますが、昭和の時代は檜町小学校でした。妹が1年だけ通いました。
 他の赤坂組でMさんは小中で同期でしたが、R坂幼稚園に通っていたそうです。


 赤坂新町のT君も小中は同期ですが、幼稚園はいっしょかどうか記憶が定かではありません。彼はのちにM信用金庫に勤めました。