昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

「赤坂をどり」⑦

 「赤坂をどり」もかつてテレビ放映されていた(確かTBS)時期があります。
 放映された時に録画していたものから、芸者さんたちのインタビューを再現してみますね。


 第四十一回「赤坂をどり」は歌舞伎座で行われました。その中の演目「義経と武蔵坊弁慶」は、ぎん子さんとかんばさんが演じています。


 ぎん子さん「着物着て、一番かんばさんが汗かいていらっしゃいます。たいへん大感激しています。立ち回りが怖いですね。あまり経験がありませんから踏むほうの足が痛いですね。最後花道でダーンと入ってやろうと思って、ダーンと踏むとビーンと足に来ます。でも本当のこと言って、若いころはいろいろ苦労もあったんですけど、やっぱり赤坂の芸者をやっていて、こういう大舞台にも出られて本当にうれしく思っています」


 ぎん子さんとは西川ぎん子さんのことだと思います。本も出されていますね。『花柳界はこんなところでございます。』(2004年PHP研究所)というもの。
 昭和27年に芳町(人形町、浜町界隈)で「〆奴」の名前でデビューした後、昭和34年に赤坂に移ってきたとあります。

『夜の赤坂』

 國木田独歩の『夜の赤坂』という短いエッセイを読みました。


 独歩は氷川町に住んでいたそうですが、夜ともなると山王のあたりは怖くて歩けなかったそうです。氷川町から赤坂じゅうを散歩していた独歩の言うことですから嘘ではないでしょう。それでもカップルがデートしているところに遭遇することもあったようです。
 赤坂田町や一ツ木まで歩いていくと人通りも多くにぎわっていたそうです。


 昭和のころの赤坂はいつもにぎわっていたと思うのですが、平成から現在までめっきり寂しい町になってしまいました。


 赤坂見附駅に隣接したビルにビックカメラが新設されました。贔屓にしようと何度か行きましたが思っていたより客は少ないです。
 都心の空洞化が言われて数年経ちますが何とも寂しいかぎりです。

日比谷公園の幼稚園

 日比谷公園の中に幼稚園がありました。知らない人がほとんどだと思います。
 ネットで検索してもあったことだけ記述はありますが、証拠となる資料というと覚束ないようです。


 公園は明治の初めころは陸軍操練所だったそうです。江戸のころは上屋敷もあったようですが、結局公園になったのは明治36年です。
 東京駅の設計者辰野金吾の草案も却下され、ドイツから帰朝した本多静六が設計してそれが通りました。


 公園内に幼稚園があったというのはそこに通っていた人から聞きました。日比谷に住まいがあった人と有楽町の歓楽街でおうちが店を経営していた人です。
 日比谷の人は分かりますが、有楽町と聞くと泰明小学校が近いんではないか、泰明幼稚園があっても不思議でないかと思います。


 ですが泰明小学校は中央区です。有楽町は千代田区です。単にそういうことですね。実際現在でも泰明保育園か幼稚園は実在しているようです。日比谷公園内の幼稚園はさすがにもうありません。


 以上の二人は千代田区の小学校で同級生になりました。

8マン ①

 8マンがテレビ放映された時は固唾を飲んで見ていた記憶があります。


 少年マガジンで一通り読んでいましたから、アニメ(動画)でどう表現されるのかファンとしては気が気ではなかったです。


 サウンドは感動しました。東探偵から8マン、8マンから東探偵へと変身する時の効果音は今思えば逆回転の音なんだろうと想像できますが、当時としては少年にとって斬新そのものでした。
 ふつうに走る「シャーッ」という音はそれほどではないですが、到着音と発走音の「ッビュッ!」という感じの音はそれまで聴いたことがないような音でした。ただしそれはプラスティックの下敷きを羽ばたかせるように鳴らせば似た感じが出ました。


『エイトマンの歌』克美しげる フルバージョン 1963~1964



 8マンは鉄腕アトムと違い、他人にバレないような活動、強化剤がタバコ式、人間関係も博士との師弟的な関係、さち子さんとの恋愛感情など大人のアニメのような感覚でした。どこかニヒリスティックでペシミズムなセンスも漂うアニメでした。


 デーモン博士は仇敵ですが、お互いに尊敬し合っている側面も垣間見え、深みがあります。デーモン博士の声は低く輪郭のしっかりしたものでした。声優さんは月光仮面に出演していた俳優の高遠さんです。



 現在はCGの技術が優れているのですから、原画と録音部分はそのままにして動画の部分だけCGで精密に再現してくれたらなぁと思うばかりです。

遅刻の常習犯

 小学校のころ、後に東急ホテルが建った関東ローム層の坂を朝上っていく時に同級生のYクンを追い抜きホッとすることがたびたびありました。彼は少し足が悪かったようなので歩きがのろく遅刻することが多かったです。ぼくもたびたび遅刻しましたが、Yクンの姿が見えるとちょっと気が楽になりました。
 彼も赤坂の円通寺坂のふもとにあった都営住宅か官舎に住んでいた時期があります。そこは5丁目で昔は一ツ木町ですが、4丁目(丹後町)の水道工事のCさんのはす向かいです。Yクンのお父さんはお役人でした。Yクンの伯父もやはり高級官僚で後年〇〇連盟のトップになりました。
 彼にはお兄さんが二人いてぼくらが幼稚園のころ(Yクンとは幼稚園も一緒)、小学生の兄弟が砂場ですもうを取っていました。ぼくには男の兄弟がいないので、妙に珍しい光景でした。
 Yクンは東大を出て有名一流企業に入ったようです。遅刻の常習犯ですが、子どものころから遠くを見るような高遠な理想を抱いているような印象がありました。同窓会でお会いした時には壁にぶち当たっているようでしたが、その後はどうなったか10年ぐらいお会いしていないので判りません。