昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

初恋

 小学3年のころ初恋がありました。1年生から4年生までクラス替えが無かったので、一目ぼれではないです。年に何回か遠足に行くわけですが、そのたびに集合写真を見ると年々可愛くなっていく人がいました。毎日同じ教室にいるのに、写真を通して憧れるという、古風なのか現代の二次元的感覚なのかよくわからない恋心でした。
 その人は千代田区にあるMレストランの娘コッペです。コッペは、幼稚園はぼくらと一緒ではなく、緑に囲まれたところに通っていたそうです。のちにコッペは赤坂の私立中学に通うようになり地下鉄を利用するようになりました。緑が無い代わりにマンウォッチングが出来たそうです。
 同期のIさんもコッペと同じ幼稚園に通っていました。Iさんの家からは泰明小学校のほうが近いですが、住所が千代田区なのでぼくらと同期になったのです。Iさんのお兄さんはグループサウンズの一員で有名人でした。
 5年生になってクラス替えがありました。コッペと同じクラスのままで結果6年間一緒だったわけです。
 ところが運命のいたずらか、転校生のOさんに興味が写ってしまい、Oさんには直接話しかけることが出来ました。加山雄三の「蒼い星くず」のB面「夕陽は赤く」を台町のリビングで聴きながらOさんの住む渋谷区の方向を思い描きました。
 結局コッペは手の届かない存在で、事実40代後半に同窓会で会った時に初めて言葉を交わしたほどです。

テアトルボウリング

 円通寺の坂の中腹にテアトルボウリングがありました。小学6年ごろテアトルボウリングに100円玉2個ぐらいをズボンのポケットに入れて遊びに行きました。
 目当てはボウリングではなく、右手にあるレーシングカーとピンボールでした。レーシングカーはAコース、Bコース、Cコースと選べて値段も違っていたかもしれません。5年生ぐらいにどうしても欲しくて親にねだって最も安い1500円のサンダーバードを買いました。小学生にとって1500円がぎりぎりねだれる金額でした。ところが他の子が操縦する2000円や3000円する車にはかないません。走りが全然違います。やがてそれは飽きました。
 次に熱中したのは、ピンボールです。テアトルボウリングに入ってすぐ右側にずらっと並んでいました。ぼくはボールをフリッパーでヒットするのは得意でした。初対面の中1の人と片手ずつフリッパーを受け持ち、誤作動もあって64ゲームぐらい上がりました。ある点数以上に達すると「スコーン」と小気味のいい音で1ゲーム上がります。ぼくたちは息も合ってかなり点数も行って何ゲームも上がりましたが、機械の誤作動で「スコーンスコーン」と続けて上がり64ゲームまで達したのです。
 あのころはまだ子どもでボウリングは大人がやるものと思っていましたので、奥のボウリング場には全く関心がなかったです。実際にボウリングを始めるのは昭和45年です。世田谷に引っ越して高校生になっていました。

赤坂台町の2階を貸す 続

 C号室には大人の雰囲気の30歳ぐらいの二号さん~Yさんも住みました。Yさんは南青山の有名なアパート(マンション型)に引っ越しましたが、祖母と母と3人で遊びに行ったことがあります。


 のちに同じ苗字のYという十代のアイドル系の容姿をした双子の姉妹もC号室に住みました。この双子は巧みに入れ替わり中年のオヤジをたぶらかすようなすれっ枯らしでした。
 A号室のNさんは30歳ぐらいの二号さんでしたが、真面目な感じのOLさん(もしかするとまだBGと呼ばれていたかもしれませんが)で茶色の車(確かブルーバードの柿の種)をうちのガレージに駐車していました。


 B号室が空き家になった時、往年の有名俳優Iさんが女性に住まわせるために部屋を見に来たことがあります。その方の葬儀にはお妾さんが数人参列したと噂で聞きました。
 D号室には19歳ぐらいのWさんが住んでいました。彼女は銀座のホステスさんでした。雰囲気が奥村チヨに似ていました。コケティッシュな感じもそっくりでした。昭和40年ごろで世代もほとんど同じです。Wさんの部屋に母と遊びにいくと洒落たクッキーやパイ、ウィスキーボンボンなどを出された記憶があります。


 個々人のおつき合いで見れば良い人も多かったと思います。ただ祖母は孫の教育上よろしくないと感じていたようです。

赤坂台町の2階を貸す

 赤坂台町の2階はアパートとして貸していました。A号室~D号室には二号さんとか銀座のホステスさんとかが借りていました。
 昭和38年当時にもかかわらず彼女らにとって朝シャンは珍しくなかったのでしょう。地域性もあってシャワーは必須だったと思われます。実態は把握できませんが、昭和30年代に港区のアパートにシャワーが設置されていた可能性は高いと思います。
 それでも彼女たちの電話は呼び出しでした。うちが受話器を取って「何号室の何某さんお願いします」と言われれば、外階段を上がって「何某さん、電話ですよ」と呼びかけます。


 ぼくも小学3、4年生のころ2階に上がって、C号室のドアを開けて「Sさん、電話ですよ」と呼びかけました。「ハ~イ」と返事がバスルームから聞こえてきました。見るとSさんは真っ裸でシャワーを浴びていました。ドアの鍵もかけずにです。背中を向けていたのでビックリさ加減は少なかったですが、20歳代の女性の裸は写真でしか見たことがありませんでした。銀座のホステスさんはすごいなと子ども心に思いました。


 Sさんはのちに同じC号室に住んだ仕事仲間のSさん(イニシャルは同じですが苗字は違います)と一人の男性客を取り合う因縁がありました。

アベベ

 昭和39年東京オリンピックのころです。小学校の体育の授業で校庭のトラックを何周もするミニマラソン的なことが二週続いたことがありました。
 一週めは偶然体調が悪く教室にひとりぼっちで待機していました。戻ってきた同級生たちは各々にヘタバった様子でした。トラックを何周も走りオリンピックの影響をモロに受けさせられた感を抱いていたでしょう。ハッサンは「カッケなんか泣いちゃうよな」と言いました。
 二週めの授業も同じです。今度はぼくも加わりました。何となく自信のようなものがありました。短距離はリレーの選手に及ばないものの、運動会の徒競走でチャーリーとホッサンが一緒の組み合わせでないときは三度とも1位を取っていました。それにぼくは長距離が得意でした。というのも呼吸法を自己流で編み出していたので。
 ミニマラソンの先頭はチャーリーで二番手はホッサンです。ぼくは三番手四番手あたりを走っていました。そのうちホッサンがバテて脱落しました。続いてチャーリーも脱落します。これは担任のF先生も想定外だったのではないでしょうか。
 ぼくは前を走っていたO君を抜きトップにたちました。クラスの何人も一周遅れで抜いていきました。何人かを抜いてホッサンやチャーリーさえも一周抜きしました。結局N君と二人っきりになりました。一周回るたびにF先生から早くも「アベベ」と声をかけられました。
 とうとうN君も一周遅れで抜き去りました。N君は相当粘ったので二人っきりで何周も走った結果です。抜いた時点で終わりとF先生から通達があったので、ぼくも倒れ込みました。クラスの連中が集まってきて頭上でぼくの意外な健闘を称えました。