昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

大物政治家

 赤坂の芸者さんから祖母に相談を持ち掛けられたことがあります。大物政治家Tの妾になるべきか否か。その芸者さんは別の旦那さんの子どもを産んでいました。そこで祖母は諭したそうです。別の人の子どもがいながら妾をやるのは人の道に外れている。別れなさい、と。
 その芸者さんはボロボロ涙を流して泣いたそうです。大昔の話ですよ。Tさんには7人ぐらいの妾が存在したと言われていますから、順番的には三番手以下だったと思われます。
 一、二を争うのはTさんとかSさんですから。Sさんでさえ娘さんは認知されなかったのですから。まして連れ子がいる女性、それがどんなに美人で気立てが良くても無理なんじゃないでしょうか。

脱脂粉乳

 妹は小学1年生の半分ばかり赤坂のH小学校に通いました。後半は世田谷の小学校に転校したわけですが、それが昭和42年です。
 給食のことを訊くと赤坂では脱脂粉乳で世田谷では牛乳だったそうです。ちょっと不思議な感覚ですね。同じ年にですよ。確かに昭和42、3年が脱脂粉乳から牛乳に転換した年回りなんでしょうけど、どういうわけでしょう。
 そのころの世田谷は住宅街にまだ畑が残っていて自然な風景であったはずです。こじつければ赤坂はアメリカ大使館が近かったりしたからでしょうか。日米安保条約と給食には密接な関係があったとする説もあります。それか単純に脱脂粉乳の管理は難しく牛乳なら遠方でも運びやすい、という事情だったのかもしれません。
 栄養的なことはよく判りませんが、現代は白米も給食にあるそうです。昔はパンが給食の主食でした。白米ばかりだとビタミンB1が足りなくなって脚気になりやすい、と。このあたりは軍医だった森鷗外や脚気に悩まされた平将門に訊いてみるほかはありません。

永田町~赤坂

 永田町に家があったのは思い出せるだけで、Tクン、Sクン、Mクン、ハッサンがいます。


 Tクンの家は国会議事堂が見えるところでした。あの前の通りを行くと少し下り坂になって皇居の周りをマラソンしている内堀通り方面に行き当たります。そこにポツンと家がありました。


 Sクンちは家の敷地内の庭がこん森と植木があって家屋が隠れるぐらいに緑に囲まれていました。まるで世田谷かと思うぐらいにです。Sクンはどこかのプロデューサーになっていると噂で聞きました。Mクンは今海外で仕事をしているとのこと。ハッサンの家は東京メトロの駅になっています。日枝神社の近くです。


 赤坂台町の家の近くに白洲次郎の事務所ビルがあったのですが、近所に外科医院があり、そこはかなり繁盛しているようでした。かつてコロンビア通りと呼ばれただけあってコロンビアの歌手はこぞってそこに掛かったようです。


霞が関の卓球場

 K中学に上がったばかりのころ、霞が関のどこか目立たない場所で卓球を楽しむことがありました。もしかしたら役所の職員さんが日ごろ楽しむ卓球場だったのかもしれません。
 当時のメンバーは父親の仕事の関係で霞が関周辺の官舎に住んでいる子が多かったはずです。Tクン、Nクン、Mクンの名前は思い出します。ただ、永田町に住んでいたハッサンやTクン、赤坂のYクン、Tクンは加わっていなかったはずです。もしかしたら永田町住まいのSクンやMクンはいたかもしれないです。
 ぼくは赤坂でしたが、自転車ならそう遠くはありません。放課後いったん家に帰った後でも十分間に合いました。もっとも今その場所を教えてくれと言われても思い出せません。
 前述の永田町住まいのMクンは幼稚園で一緒でしたが、トイレでころんで血を流していたのが、55年経っても印象に残っています。

霞が関周辺

 以前、小学校時代の初恋のひとのことを書いたと思います。彼女は校門を出るとぼくと反対方向に歩いて行きました。「国会議事堂前」駅を使っていたのかもしれません。丸の内線を利用していたのでしょう。でもそもそも彼女が生まれた家もずーっと歩いていけば行けます。「霞が関」駅で降りれば行けないこともないですが、雨でも降っていないかぎり小学生が歩けない距離ではありません。


 そんなところに住むところなどあるわけがない、と一般的には思われるでしょうが、住んでいた時期があるようです。年に一、二度メールのやりとりをしますので、今度確認してみます。
 考えてみれば議事堂周辺は60年安保以降は警備が為され、安心な通学路だったかもしれませんね。