昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

「赤坂をどり」⑪

 TBS放送時の「赤坂をどり」会長で料亭(当時)「F林」の女将さんHさんと「赤坂芸妓組合」の理事長(当時)K枝さんことW月F代さんのお話。

 会長Hさん「組合最後の幕は、赤坂の料亭においでいただきまして、お楽しみいただけたというような気分の舞台にいたしたいと思いまして、その意味では味を出すのに苦労しました。ご覧いただきまして皆さまのお耳にあるような唄を、というようなやわらかい踊りにしました」
 理事長K枝さん「稽古はたいへん難しいです。みんな考え方がちがうのでそこだけ苦労しました」

 それに対して、
 芸者さん「K枝ねえさんにいつも大きな声で叱っていただくと却って心が落ち着きます」
 Hさん「歌舞伎座でやらさせていただきますから、一同はりきって熱気を感じますので、お楽しみいただけたと思います」
 K枝さん「今年はさすがによくできたと思います」

日本一の自動車街

 赤坂はかつて日本一の自動車街でした。


 赤坂タウン誌『歩く赤坂』を見てみます。


 赤坂田町一丁目から五丁目までざっと見てみると、伊藤忠自動車、大岡自動車、ヤナセ、東京ホンダドリーム、葵自動車、三信モーターズ、日本タイヤ、眞鍋自動車、東邦モーターズ、日本車両、朝日自動車、三和自動車、日本自動車、などがあります。


 さらに溜池町には菱和自動車、國際自動車、安全自動車、日本交通本社、日興自動車、八田自動車、太陽自動車工業、東京日産、日本自動車、日本ダンロップ、ニュートーキョーモーターズ、などが見られます。


 これらは昭和30年ごろの住宅地図によります。日本のデトロイトと言われたのもむべなるかなと思います。

新橋烏森

  父の帰りがちょっと遅いとき、お酒を飲んでいるなら飲んでるところを探しに行こうと言って、母と新橋へ行きました。烏森神社は飲み屋街の細い路地を行った突き当りにありました。ですから烏森の飲み屋と言ったらその路地を行くのです。
 突き当たって手前の二軒めの飲み屋をのれん越しに覗き込むと案の定父がハンチングを被ってちびちびやっていました。母の勘も大したもんだなと思いました。声を掛けたら父が嫌がるのは分かっていましたから、こちらが来ていることに気づくまで待って、一瞥したら普通に帰るのです。
 単に浮気していないか、一人で飲んでいるなら安心ということで母も帰途につくということだったと思います。 何とも昭和っぽい話だなと思います。

昭和の終わり

 昭和63年の暮れごろは深夜テレビで下血がどうとか字幕放送されていましたね。どうにか昭和64年の正月を迎えてそろそろ元号が変わるかもしれないという予感はあったと思います。

 明けて正月の4日にぼくは一人でキャノネットを手にして高橋是清公園に行きました。「青山一丁目」の駅から歩いて行きました。
 何となく昭和も終わりそうな寂しい気持ちがすでにあったかもしれません。幼少期の原点である高橋是清公園に立ち返る気分で子どものときに遊んだ古井戸の跡や馬の形をした岩石、池の跡、小さな清水を横切る短い橋、是清像、林の寒さなど見て歩きました。


 すでにそのころ昭和を懐かしく思う心は芽生えていました。キャノネットはたまたま家に残っていたようです。


 数日後昭和天皇は崩御し、大喪の礼がありました。その時も母と妹とで高橋是清公園の前で黒い車を中心に大喪の礼の行列を眺めました。


 三人で表町、台町と歩き一ツ木の蕎麦屋さんに入りました。


 同じ青山通りでも青山三丁目付近と違い赤坂7丁目近辺は拡幅する必要はなかったんだと思います。
 それもありますし、表町から台町に引っ越してすでに青山通りに対しての喪失感は薄かったように思います。

都市の幻想

 荒井由実の「ひこうき雲」の最後のフレーズ「ひこおーきぐーもー」のところを聴くたびに思い出す歌があります。
 西田佐知子の「くれないホテル」です。「だれが名付けた、くれないーホテール」のところです。


 どちらも独特の節回しがあって、どこか中東風だったりすると感じるのは僕だけかもしれません。この節回しがアジアの片隅の日本の都市の幻想を表現しているような気がします。

 江利チエミの「ウスクダラ」の節回しを僕らは知っています。あのトルコの民謡の歌をです。日本人はラテンとか中東風の音楽を無意識に取り入れていたような気がします。