昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

二号さんの知恵

 二号さんに限らずですけど、勤めもやらずいきなり嫁にいった女性よりもそれなりに社会を眺めたひとは節理みたいなものを会得していると思います。

 金をかけても子どもにはいい教育を与えてやりたいとか、のびのび自由に育ってほしいとかの価値観が育まれると思います。
 親御さんの見栄で子どもに教育や習い事をさせるのと違い、英才教育は効果があると思います。突飛に思われる習い事も大人になって生きてくることがあると最近感じています。

 万が一勉強に向いていない子どもであっても英語ができるとか楽譜がよめるというのは全く無駄ではないと思います。学歴で評価されなくても英会話ができれば何かしらのアルバイトで生かせ、楽譜が読めれば何かしら仕事があると思います。

 そんなに世間は甘くない、結婚もできないし、住宅ローンも組めないと言う人は多いと思います。ですが、昨今の価値観から結婚や家を買うなどが消えていっている気がします。


 独り寂しく生きていくのもいいではないか、と思ったりします。そのかわり語学や音楽関係のバイトなりパートで細々と暮らしていくのもりっぱな人生ではないかと思います。

巴里にあこがれて

 父が酔っぱらうと「大利根月夜」と「巴里の屋根の下」を歌いました。
 父は少年時代に親戚や他人に引き取られていましたから、孤独を癒すために活動写真やトーキーの映画を見ていました。弁当を持っていって入れ替えのときに、座席の下に潜りこんで映画館に入り浸っていたそうです。
 大阪や愛知に引き取られていたころはまだ年端のいかない尋常小学校の子どもですから、こづかいも限られていて映画館に通うほどではなかった可能性が高いです。

 渋谷に住んで数年後神田の正則英語学校に通うことになり、おそらく市電で渋谷から須田町ゆきに乗り専修大学前で降りて、神保町のさくら通りにあった「東洋キネマ」に通っていたと思います。
 「巴里の屋根の下」「巴里祭」「北ホテル」など見たんだと思います。


 英語学校に行く場合須田町まで乗っていくか銀座線で神田まで行くのが妥当でしょう。実際は英語学校へは通っていないのです。祖母からもらった月謝は映画代に費やしたようです。

 父は晩年書道教室を開きました。その関係で中国へ行きたいと語っていましたが、本当はパリに行きたかったんじゃないかと思います。
 父が「巴里の屋根の下」の世界に憧れる気持ちは判ります。少年時代にフランス映画に親しみ、青春時代フランス文学やロシア文学を読んでいた父ですから、パリに行きたいという気持ちはよく判ります。
 ぼくはそんな父の気持ちも心のどこかに抱いてフランスに行きました。パリも散歩しました。

田村町

 祖母が昭和20年代に金庫の仕事をこなしていたころ、六本木界隈で噂の美少年がいました。その少年は当時洗濯屋の小僧をしていた、というのは祖母の表現です。
 現代流にいえばクリーニング店のアルバイトです。のちに大映の川〇敬〇になる人です。働きながら学校に通っていて六本木でスカウトされたのかもしれません。


 アルバイトで思い出しましたが、父の会社は田村町の近くにあったのですが、辻〇生がアルバイトで勤めていたそうです。のちに文学者になった辻氏ですが、仕事はまるっきりダメだったと父は語っていました。


 田村町と言っても会社の住所がそうだったのかは判りません。子どものころに一度だけ連れていってもらったことがあるだけで、在り処は判りません。近くに戸板女子があったということしか聞いていません。(後年母と会社があったと思しき辺りに行ってみたところ、空き地がポツンとありました。)


 父は停留所の「田村町」のことを言っていたんだと思います。「田村町」は都電もバスも停留所があったと思います。確か虎ノ門と新橋の間ぐらいにあったと思います。

シャンソン、フランス映画サントラ


Göttingen -Barbara- Subtitulada.flv


 シャンソンのバルバラを聴くと昭和30年代を中心にした東京をイメージします。1960年代の曲を集めたCDは1990年代に出たベスト盤が数年前にリマスターされ再販されました。



 伴奏はフルアコの電気ギターやコントラバス、弦アンサンブル、ハープなどいい具合に融合して懐かしい気分にさせてくれます。
 曲によってはトランペット、アコーディオン、クラリネット、ヴィブラホンが入ったりします。


 1950年代のバルバラはピアノの弾き語りも多く聴かれます。



 彼女のメロディーラインはシャンソンとジャズとクラシックが融合した要素があるように思えます。ですから楽器の編成もバラエティーに富み自然に受けとめられるのでしょう。
 音の彩りが豊かで曲を聴いているだけで映画やドラマのワンシーンを見ているような感覚に浸れます。



 思い出の中の昭和30年代はふわっとした音の融合で成り立っています。

Mon Oncle-thème



 ジャック・タチの「ぼくの伯父さん」のテーマとか西田佐知子の曲とか聴くとアコーディオンとかヴィブラホン、コントラバス、ハープなどが耳を愛でます。

忠犬ハチ公

 祖母と父は昭和8年には渋谷に住んでいました。宇田川町です。渋谷もそれまで豊多摩郡渋谷町でしたが、昭和7年に澁谷區になりました。

 昭和9年には忠犬ハチ公像が建てられました。この時にはまだハチ公は生きていたんですね。銅像と一緒に写真に撮られているそうですが、祖母は生きて動いているハチ公を見たと言っていました。

 飼い主の東大農学部上野教授は大正14年にすでに亡くなっていたんですね。ハチ公は渋谷富ヶ谷の元使用人の家で飼われるようになり、餌は与えられていたそうです。

 ただ飼い主の教授の姿が恋しくて、帰りの時間になると渋谷駅の周辺をうろつくということになったわけです。駅に行く前に渋谷大向の教授の邸に寄っていたというから泣かせるじゃないですか。
 大向ということは現在で言う東急本店の裏側のバス通り沿いです。商業地的ではありますが、まだのどかなところもあったでしょう。富ヶ谷からまっすぐ走ってきたらちょうど途中にあります。

 ハチ公が亡くなったのは昭和10年です。銅像が建った昭和9年には東横百貨店も創業し町は大にぎわいだったと想像できます。


 銅像が建つ少し前から新聞報道などで有名になったので通行人たちが食べ物をあげたりしていたそうで、祖母も渋谷駅周辺で頻繁に見かけたのでしょう。あちこち駈けずり回ったらしく身体は汚れていたそうです。ハチ公は大正12年生まれですでに11歳になっていました。