江戸女流画家平田玉蘊とその周辺
平田玉蘊は天明七年(1787)に広島尾道の木綿問屋福岡屋の二女(長女は夭逝)として生まれました。
名は豊または章(あや)。4歳下に妹庸(=玉葆)がいます。
玉蘊は頼山陽の最初の恋人と思います。山陽は玉蘊に出会う前に結婚はしていました(梨影とは再婚)が、脱藩騒ぎで幽閉されて数年籠っていました。妻淳子とは解消状態。
幽閉が解かれて二年後玉蘊と知り合いました。玉蘊はこの前年父五峯(ごほう)を病気で失くしていました。
玉蘊は少女時代に絵を学びに上京(京都)していたようです。同じ歳の江馬細香も13歳から京都の僧に絵を学びましたが通信教育でした。上京したのは25歳といいますから、玉蘊のほうが10年ほど先行していたかもしれません。
が、たったひとりで上京というわけではなさそうです。下男下女がついて行っても何とか安く済んだようです。そのころ旅の娘がかどわかされて遊郭に売り飛ばされることもあったからです。
ただ玉蘊が20歳の時に父五峯は47歳で病没しています。どこかで無理をしていた可能性も考えられます。
山陽(数え27歳)と玉蘊(数え21歳)は竹原で詩会、舟遊びの際出会いました。山陽は玉蘊の薄化粧の洗練さと絵の美しさに感動して賛詩を詠んでいます。
(ただし山陽と玉蘊は結婚できませんでした。それについては以前も書きました。)
それに先んじて山陽の師である菅茶山や伴蒿蹊(ばんこうけい)、張梅花(ちょうばいか)、など高名な文士が玉蘊の麗わしさ、絵に賛詩を詠んでいます。
菅茶山の『黄葉夕葉村舎詩』の中に玉蘊の絵を掲げ、容姿への賛辞を加えた詩があります。このころは豊と呼んでいたらしく、直後玉蘊と号されるようになりました。(玉蘊、玉葆の号をつけたのは山陽の叔父春風と伝えられています)
豊女史画(えが)く牡丹花 菅茶山
国色凝霞彩
天香湿露華
深閨無限思
画出牡丹花
(読み下し文)
国色 霞彩(かさい)を凝らす
天香 露華(ろか)をうるおす
深閨 限り無きの思い
えがき出す牡丹の花
(現代語訳)
この世のものとは思われない麗しい姿は 霧に染まり
この世のものとは思われない麗しい香りは 露さえ染める
奥深い部屋に 無限の思いに沈み
その人は描く この牡丹の花を
国色天香は牡丹の異名です。無限の思いに沈むというのは父を失った思いのことです。
玉蘊、玉葆姉妹は文人たちのアイドル的存在だったでしょう。玉葆も玉蘊から絵を習っていました。
頼山陽ばかりでなく父春水は玉葆の絵に、叔父杏坪(きょうへい)は玉蘊の絵に賛詩を添えています。
玉蘊が亡くなったのは安政二年(1855)の6月20日です。遺作や墓碑銘には七十歳とあります。
ここからはぼくの推理ですが、数え69なら67歳でも使います。6月20日の段階で誕生日を過ぎていれば68歳ですから数え70と言えます。が、亡くなる年の正月に描いた絵に七十とあるのでちょっと混乱します。正月松の内に誕生日を迎えていればあり得ないことはないですが。
(参考:『頼山陽と平田玉蘊』池田明子)
→「正誤後記」:富士川英郎『菅茶山』によると平田玉蘊は天明五年(1785)生まれと思われる記載がありますので、江馬細香より2歳上の可能性ありです。