昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

法然 親鸞

 法然は長承2年(1133)4月7日生まれで、親鸞は承安3年(1173)4月1日生まれです。


 グレゴリオ暦に変換すると、
 法然 1133年5月20日 、 親鸞 1173年5月21日


 ちょうど40歳違いということになりますね。唐突ですが、

 星座の配置を見てみます。共通点も多いですが違いもあります。
 太陽、月、水星、金星、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星の順で並べます。


 法然
 おうし、おひつじ、ふたご、おひつじ、ふたご、おひつじ、いて、てんびん、てんびん、おうし


 親鸞
 おうし、ふたご、ふたご、おひつじ、しし、しし、おひつじ、おひつじ、いて、ふたご


です。どちらも知的好奇心旺盛な要素が強いです。


 法然は斜視だったと思います。それと斜め上を見てモノを考えたり語ったりするクセがあったと思います。作業をしながら鼻歌を歌うところもあるので南無阿弥陀仏を唱えていたかもしれません。明恵(親鸞と同じ1173年生まれ)からは徹底批判されました。女性関係は式子内親王との手紙の交信がひんぱんにありました。内親王からの片思いというか真摯な恋心があったのかもしれません。法然の両親は秦氏が出自で渡来人の可能性が高いです。


 親鸞はパワフルであったと思います。妻が三人、子どもが七人いたと伝えられています。妻の一人は恵信尼(1182年生)です。恵信尼は二人子どもを生んだとされ、他の子どもに関しては別の母がいたようです。唯円による『歎異抄』には「悪人正機説」が展開し親鸞の代名詞のように語られることが多いですが、これはすでに法然の教えにあってそれを親鸞は受け継ぎ唯円に語り継いだというのが正しいです。親鸞の著書『教行信証』には『歎異抄』と違う著述があります。親鸞が、法然にだまされて地獄に堕ちても悔いはないと語っていたのは激烈なものを感じます。


 実は法然と親鸞はかなり似ていると思っていました。改めて天文暦を注視しましたら以前と違ってしまいました。要するにデータを見間違えていたのです。
 これは大きな再発見でした。
 ただ思想はそれほど違っていないと思います。法然が提唱して親鸞が実行した(生きた)ということです。二人とも弾圧され流罪にもなっています。

×

非ログインユーザーとして返信する