昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

時間の非実在性 義堂周信と絶海中津

 義堂周信と絶海中津は五山文学の双璧を成します。義堂と絶海の二人をマクタガート的な見地で見てみます。


 義堂は時間のA系列において未来に属し、絶海は空虚な現在に寄り添っています。


 義堂も絶海も未来を向いています。義堂も絶海も同じ方を向いていますので対面しません。
 絶海は義堂の後姿しか見えません。


 B系列において義堂はより先、絶海はより後です。ただ空虚な現在の事象において我々が感じるのは絶海が先に来て義堂は後から来るように感じます。


 これは時間に関する最も難解な概念です。どういうことかというと義堂は本当により先なのだろうかという問い。絶海は本当により後なんだろうか、という問い。これらがB系列の概念上どうしても生じるポイントです。


 これらを解くカギは、絶海が空虚な現実に寄り添っていること=言いかえること、にありそうです。


 事象に目途が立てばわれわれは絶海の位置が確認できるかもしれないのです。瞬間々々現れては消える事象に寄り添う位置に絶海はいると想定します。
 絶海からの視点がある客観的な概念とするかしないかはこの際置いておきます。


 ただし絶海から見て義堂がより先というのは誤りではないか。後姿しか見せないために錯覚しているのではないか、と考えます。これは意外と重要です。


 ちなみにC系列において義堂と絶海は異なります。義堂はやや抑え目な詩情でバランスよく謳います。絶海はやや奔放に情感を謳い上げます。その違いが近年五山文学において絶海こそが最高の詩人であると学者たちの認識が固まりつつある一因かと思います。


 現れては消える空虚な現在の事象に寄り添うと答えを先に書いてしまって今さらと思った読者は鋭いです。絶海が事象に近い位置に仮にいることは想定可能です。


 初めにA系列において義堂が未来に属し、絶海は空虚な現在に寄り添っていると前置きなしで書きましたが、この点に注目をし続けてもらえればいいと思ったのです。


 ただどれだけの人がそれを認識できるか、この課題はほとんど不可能と今は言っておきます。

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