シベリアで抑留された伯父
伯父のHさんはシベリアで抑留されて、それまでにソ連の湖に20日間浸かったまま、戦友たちが目の前でバタバタと倒れていったと聞きました。ソ連軍の捕虜になった時は逆に命拾いしたような感じだったようです。
ヤポンスキー、ロスキー、ソルダット、ハラショ、スパシーバなど片言のロシア語で看護婦と仲良くなったと言っていました。
Hさんは大正9年生まれながら大柄長身でおそらく精神力も半端ないので生き延びたのでしょう。
Hさんのことは親戚の間では本郷の伯父さんと呼んでいました。実家が本郷區だったからですが、あのころは親戚や身内は地名で呼び合っていました。うちも赤坂と呼ばれていました。
で、本郷の伯父さんが戦後シベリアから引き揚げて実家に戻ってみたら、土地を半分奪われていました。戦争のどさくさの中、勝手に土地の図面に他人が線を引いてしまったといいます。
とにかく食うために関東のとあるところに職を求めたのですが、たまたま後の妻(伯母)と出会いまして結婚したわけです。
本郷の所帯は大舅小姑病人が雑居状態でした。都心は焼け野原から復興途中ですから身を寄せ合って暮らしていたんでしょう。
従兄は昭和25年生まれですが、畳ではなく筵(むしろ:茣蓙ござ)を敷いた板の間で赤ん坊のころ育てられたというのです。昭和28年には次男が生まれます(ぼくにとっては従兄)。でもそのころから伯母は大舅小姑との雑居状態に耐えきれなくなっていました。
今の人には考えられないほどのストレスがあったと思います。その後いろいろあって省略しますが、伯父は83歳まで生きたし、伯母は存命中で今年94歳です。うちの両親なんかとっくにいないのにw
伯父は酒好きで酒は強かったです。その伯父のことをイメージして漢詩を作ったことがあります。たぶん15年ぐらい前です。
歳晩
倉米淸貧生計難 倉米淸貧生計難し
寒厨雪満酒瓶乾 寒厨雪満ち酒瓶乾く
慈親多病人將老 慈親多病人將に老んとす
守夜蕭然燈影殘 守夜蕭然燈影殘す
(注)守夜=夜明かし