昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

梁川(張)紅蘭の詩

 梁川紅蘭は文化元年1804年3月15日(グレゴリオ暦4月24日)に生まれました。女流詩人としては江馬細香に並んで語られるほどの才媛でした。

 美濃の曽根村(岐阜県大垣)の梁川星巌が開いた私塾「梨花村草舎」に14歳で通うようになり、紅蘭のほうが星巌に魅かれ17歳で結婚しました。15歳年の差があり(星巌32歳)、再従兄弟(またいとこ)でもあったため、紅蘭の父は迷いましたが、星巌の人柄を高く評価して結婚を許したといいます。文政三年(1820)のことです。

 当時苗字を一緒にする慣習は無かったのですが、張と名乗りました。一説には曾祖母が尾張徳川の士族の出なので、尾張から取って張と名乗ったと言われています。星巌の生前は特に張もしくは張氏と名乗っていました。張にしても紅蘭にしても当時中国風にするのが流行っていた背景はあると思います。旧姓は稲津で名は景です。


     梅花寒雀の図


 啁哳百千相集喧     啁哳(とうたつ) 百千 相集りて喧(かまびす)し
 蹋枝啄蘂弄春喧     枝を蹋(ふ)み 蘂(はな)を啄(ついば)んで
 不知粉蝶眠何処     知らず 粉蝶(ふんちょう) 何(いず)れの処に眠るかを
 剛被嘉賓占上番     剛(まさ)に嘉賓(かひん)に上番を占めらる


 無数の雀たちが集まっては、ちゅんちゅんとかしましくさえずっている。
 枝にのり、花をついばんで暖かい春の日差しを満喫している。
 白い蝶々はどこに眠っているのかしら。あいにくにもお客様方に春一番の花を独り占めにされてしまいましたのね。

 「白鷗社集会図」でも江馬細香の後ろでつつましく座っている紅蘭の姿が確認できます。細香とは16~7歳も違いますから、年の離れた姉妹か叔母と姪のような関係だったようです。

  紅蘭の書。張氏紅蘭の署名があります。星巌の死後は梁川紅蘭を名乗ることが多かったです。

 梁川星巌(時代劇の妖術使いみたいな風貌です)


 星巌夫婦はあちこち旅ばかりの一生でしたが、星巌がコレラで亡くなったのは京都の頼山陽の旧宅山紫水明処の隣り「老竜庵」でした。
 安政の大獄で捕まるはずだった直前に星巌は亡くなったわけです。頼山陽の四男頼三樹三郎は捕えられて処刑にあっています。
 紅蘭は星巌の身代わりに捕えられました。半年間の取り調べ中、知らぬ存ぜぬの一点張りで釈放され難を逃れました。


 紅蘭は獄中で詩を詠んでいます。


   己未正月廿九日 獄中作
 誰か弧鸞(こらん)を把(と)って 網塵(もうじん)に付す
 飛ぶを囚え舞うを禁じて 太(はなは)だ艱屯(かんちゅん)
 栄衰と寵辱(ちょうじょく)は固(もと)より常の事
 誰か害せんや乾坤不測の神を
                      (原詩省略)
 独り身の私を捕らえて、埃だらけの網に押し込んだのは誰だろう。
 飛ぶも舞うもさせずに難儀なことだ。
 人の世の栄衰など当たり前のこと。しかし私は天地古今を一貫する霊性を持っているから、こればかりは誰も害することはできない。


 自由の身となった紅蘭は寄宿などした後「老竜庵」に戻って私塾を続けました。さらに時代は大きく変わっていきますが、少なからず紅蘭も影響を与えたように思います。


                  (参考:福島理子 伊藤宗隆)

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