日夏耿之介 ②
①の煉金秘義 道士月夜の旅 の続きを書きます。
Ⅲ
わが家郷(くに)の指す方(かた)は
黔(くろ)き寒林(かんりん)をかいくぐり 性急の小溪(をがわ)を徒渉(かちわた)り
灰白(くわいはく)の雲垂るる峻山(しゅんざん)の奥秘(おくが)に在る
稚(いはけ)なきころ わが身はいつも沈黙と
寂莫(じゃくばく)の水銀液ふかく潜み入り
たまたま燃え出(づ)る格天井の
銀の燈影(ほかげ)をなつかしみ
---わが書斎はまたわが浴室であったゆゑーー
頑(かたくな)な浴船の黟(かぐろ)い縁(へり)に軀(み)を靠(もた)れて
その数 量(はか)り知れぬ古冊(こさつ)を誦(よ)んだ
Ⅳ
飢渇(うえ)と騒擾(どよもし)と物欲とからえ免れし身は
ただ満天の色嶮(けは)しい莫雲(ばくうん)の固定表情をうち眺め
皺だむ丘の寒巌の
破隙(われめ)に花もつ一本の艸本(くさだち)と
山野を美飾(かざ)る無数の雲雀(ひばり)らの
姿態を窮理(きは)めた
儂(わ)が心性(こころ)は 嬰児(みどりご)のやうに弾力化(はずみ)あり
多く困苦に克ち
朝風を孕む白い帆布(ほぬの)のごとく
耐へしのんだ
Ⅴ
嗚呼 高大な寂黙の世界(よ)の黎明方(よあけがた)を
遠く己(おの)が心の一隅にふりさけ見て
いまも身は十七歳の心臓のごとくに躍る
儂(わし)はわが在国とわが他人らとより出離(しゅつり)して
今宵 色青い月光(げっくわう)のながれ蔟(よ)る大街道を
落葉踏みわけ
身を疼(いた)め
こころを暢々(のびのび)と瞳をすゑて
儂(わ)が赴(ゆ)く故園(ふるさと)の指す方(かた)を辿(たど)る 辿る