東京大空襲の日
浅草の小父さんは特攻隊に入っていましたが、東京大空襲の報せを聞いて一時東京に戻ったそうです。それが5月のころだったのですが、近所の人に両親の行方を訊いて歩きました。
どこで訊いても確かな情報は得られず、それでも誰かの言うことには、リアカーを引っ張って駒形橋を渡っていくのは見たということ、爆撃から逃れるように東駒形方面に走っていったということ、しか分かりませんでした。
小父さんの実家は「駒形どぜう」の近くでした。だから隅田川を渡って逃げることしか手立てはなかったと思います。
隅田川には逃げそびれた人たちの黒焦げの死体や川を泳いで渡ろうとした溺死体でいっぱいでした。
小父さんの兄は大正11年生まれで府立一中(現:日比谷高校)卒でしたが特攻隊で1月に戦死していました。
両親も絶望的でした。
小父さん自身は特攻隊員として8月17日に飛び立つ予定でしたが、2日前に終戦。
数か月後東京に戻っても喪失感しかなく、生きていく気力はしばらく無かったそうです。両親の遺体は行方不明のまま遺骨も手元に戻らず、小父さん曰く、もし東京都慰霊堂に祀ってあればひき取ることも出来ただろうに、と。
小父さんはぼくと会った時にすでに肺気腫を患っていて、酸素ボンベを傍らに置いてチューブで鼻から酸素を吸入していました。
そして平成19年に亡くなりました。もはや遺骨が安置されているかどうかも分からず仕舞いです。
未だに身元不明で引き取り手がない遺骨は3700体あるそうです。
東京都慰霊堂は本所區横網にあった東京大震災記念堂と大空襲慰霊者が合祀されて、今の形になりました。
現在も場所は同じで住所は墨田区横網です。隅田川の蔵前橋を渡ったところにあります。
自転車で通ったことがあります。