浅草の小父さんを想い出して
映画館の看板描きだった小父さんが亡くなったのは民主党が政権を取る前の年だから2008年だろうか。今でも時々思い出す。
小父さんに初めて会ったのはさらに遡って2年ぐらい前か、いや実質1年ぐらいだったかもしれない。月に二度は会っていたのだから15、6回は会ったはずだ。
初めて小父さんを見かけたときはホームレスが誰かに頼まれて絵を売っているような様子だった。
あとになって考えてみればそれも小父さんの無意識の演出だったかもしれない。
コミュニケーション力不足な自分が声をかけたのだからずいぶん油断していた。一度めはもう夕方で観光客もそろそろ帰途につく時間だったので、今度また見に来ますねとひと言いって帰った。
次に浅草に行ったときは写真を撮りながら小父さんのところに行った。初めてのときもカメラを提げて撮影した帰りだった。フィルムは収めたままだったので残りを撮ってしまいたかった。
小父さんは「きっと来ると思ったよ。来るか来ないかはすぐわかる」と言った。また来るねと言って二度と来ない人は多いようだ。
最初の印象より案外しっかりしているなと思った。
訊けば特攻隊の生き残りだと。南の島から飛び立つ2日前に終戦になったらしい。昔は剛健な身体つきをしていたが、80を過ぎたころ肺気腫になりタバコをやめて酸素ボンベを傍らに置いて鼻からチューブで酸素を吸い込まなければいけない。身体が小さく痩せてしまったのはそのせいだった。
演出などと失礼なことを書いたが、実際肺は悪くぼくと会話しながら時々ぜいぜい苦しそうなときもあった。亡くなったのも肺のせいだ。
ぼくにとっては親戚の叔父さんかそれより親しい気持ちだった。父親とろくに話などしなかったから穴埋めかもしれない。
だが、小父さんにも謎がある。あの絵は本当に小父さんが描いたのか。奥さんは美術大学出身でほとんどいつも小父さんと一緒に来る。まさか奥さんが描いたのでは?と思ったこともあった。でも映画の看板を描いていたのだからまんざら嘘ではないなと思える。
年齢は小父さんが亡くなった後、2歳誤魔化していたと判った。線香を上げに墨田区だか葛飾区あたりのマンションに行ったのだ。駅で奥さんと待ち合わせて軽トラで行った。
大正13年ですよね、と思い出話の流れでぼくは訊いた。奥さんは本当は15年なのと微笑みながら言うのだ。え、何でですか、と思わず問うた。若々しく見られたかったのね。
だが15年というと母と同じだし、親戚の叔父さんも15年だ。叔父さんは戦争に行っていない。
そうなると小父さんは中学を中退して志願したことになる。旧制中学だ。旧制府立三中(現在の両国高校)の途中で早いうちに海軍予備隊に入ったと想像される。
長兄は大正11年というから父と同じ年だ。府立一中(日比谷高校)から海軍に入って南の島から特攻隊で飛び立ち戦死した。
小父さんはそれ以前に東京大空襲で両親を失っている。大空襲は3月だったが、5月ごろ小父さんは休暇を取って上京し両親の消息を調べた。生きている可能性は見つけられなかった。隅田川を渡ったところに戦没者の集合墓標がある。
生活保護を受けていた小父さんだが、奥さんはスープの冷めないところに住んでいるのだ。偽装離婚である。奥さんもパートで働いていたが、それだけでは生活は苦しい。
ぼくが線香を上げに行ったマンションは小ぎれいな今風で部屋の中は30インチの液晶テレビがあった。想像以上に困っていない様子であった。亡くなったのは間違いでない。骨壺が置いてあったから。奥さんは近所に住んでいると思われる。
だが、もう一度行けと言われたら駅から車で行ったのでどこであったか思い出せない。