昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

頼山陽とその時代

 頼山陽は変わった人だったようです。癇癖症(かんぺきしょう)が持病でした。宿痾(しゅくあ=持病)なんて難しい言葉も出てきます。現在でいうと躁鬱病でしょうか。


 しかも物欲、性欲が強く、ひとが持っている硯(すずり)など気に入ってしまうと、あらゆる手段を尽くして手に入れようとしました。


 恋愛のほうもわりと盛んで平田玉蘊とか江馬細香と交際しました。
 玉蘊は(ぎょくうん)と読みますが、生地広島尾道では(ぎょくおん)と呼ばれています。玉蘊は絵を流麗かつ優雅に描き漢詩も優れた、才色兼備の女性でした。


 山陽と玉蘊は結婚寸前までいきましたが、玉蘊が京都に出向いた際あいにく山陽と会えずすれ違いになって結局結ばれませんでした。


 続いて山陽は江馬細香(えまさいこう)と出会いひと目ぼれします。細香は瓜実顔だったといいます。細香も漢詩の才能が抜群で山陽の理想の相手でしたが、細香の両親の反対にあい結婚できませんでした。
 「白鷗社集会図」という絵に細香が描かれています。張紅蘭(梁川星巌の妻)も細香の隣りに描かれています。


 山陽は世話女房型の梨影(りえ)という女性と所帯を持ちます。山陽の父頼春水は結婚に反対しました。梨影はひらがなしか読めない人でしたが、山陽の嫁として恥ずかしくないように努力して漢字や書道を修練しました。絵も習ったそうです。


 ですが、山陽と細香の仲は続いており、愛人として、というより現代風に言えばパートナーとして公認の仲だったようです。サルトルとボーヴォアールみたいなものでしょうか。


 山陽は旧暦では1780年12月27日生まれですが、グレゴリオ暦にしますと1781年1月21日生まれです。
 細香と玉蘊は奇しくも同じ1787年生まれです。ショーペンハウアーより1歳上です。
 (その後玉蘊は細香より1歳乃至2歳上だと判明しました)

 山陽の叔父頼杏坪(きょうへい:山陽の父春水の弟)は1756年生まれでモーツァルトと同年です。ちなみに2歳下は松平定信や良寛さんがいます。
 梨影は1797年生まれです。シューベルトと同年です。


 山陽は若いころ脱藩という切腹にも科されるような重罪を犯しますが、自宅の離れに幽閉されるだけで何とか収まります。それが逆に効を奏し『日本外史』の種を生むことになりました。
 大塩平八郎(1793ー1837)に影響を与えた山陽ですが、『日本外史』は幕末の志士たちにも大きな影響を与えました。


 見延典子の『頼山陽』は通読しましたが、肝心の中村真一郎の『頼山陽とその時代』は途中です。

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