ハイデガーの世界内存在
伊藤吉之助という人は1918年フライブルグに留学しました。ハイデガーと出会っています。
ハイデガーより4歳ぐらい年上の伊藤ですが、ハイデガーによる個人教授と言いますか、伊藤の下宿先にハイデガーが出向いたので個人授業ですね。
そのころ日本は裕福ですから下宿といっても数部屋も確保している下宿です。もったいないのでハイデガーの授業は学友4人で受けていたようです。
ちなみに同時期には九鬼周造はサルトルの個人授業を受けています。
ある日、学友たちは釣りに遊びに行こうということになり天野貞祐(後のカント翻訳で有名な学者)も合流するから、ハイデガーの授業をサボってしまえと伊藤は誘われてタクシーに乗り込みました。
狭い路地を行くと向こうからハイデガーが歩いてきました。すれ違う時、車内の伊藤らは顔を隠してうずくまりました。
授業をすっぽかされたハイデガーはカンカンだったようです。
1919年か1920年に伊藤が卒業する際ハイデガーに悪いと思ったので、おわびに岡倉天心の『茶の本』のドイツ語訳を手渡しました。
『茶の本』は岡倉が英語で著したもので、その中に荘周の『荘子』の「処世」を引用していて、「処世」を岡倉はbeing in the worldと書きました。ちなみに荘周はアリストテレスと同時代です。
being in the worldはドイツ語だとIn der Welt seinとなります。それを日本語に翻訳して「世界内存在」となりました。
ハイデガーは『存在と時間』(1927年:1923年草稿~未完)において「世界内存在」を採用しました。
「処世」が一周回って「世界内存在」になってしまったのです。
ハイデガーは後年、親鸞の思想を著した『歎異抄』(唯円)に感動したそうですから東洋思想にかなり興味を持っていたと思います。
(参考:今道友信著作)
最後に脱線しますが、九鬼周造は芸妓の子らしいです。しかも岡倉天心の種ではないかという下衆な憶測も巷に流れています。