坊主の偽装自殺(空入水したる僧の事)
今度は坊主の偽装自殺です。「空入水したる僧のこと」も入院中にラジオで聴いて頭の中で映像化されました。ルポルタージュのように見てきたような語り口なので映像化できたのです。
くわしくは「空入水(そらじゅすい) 僧」などと検索すれば原文も現代語訳も出てきますので参照してください。『宇治拾遺物語』です。ここではだいたいの流れを書きます。
桂川で入水自殺すれば極楽往生できるということなので、聖(ひじり:僧)が橋の欄干で念仏を唱えていました。
入水するところを一目見て成仏する結縁(けちえん)のおこぼれを得ようと、あやかり我も我もと河原は参詣者で押し合いへし合い。
聖は見物人と目も合わさず陀羅尼(だらに)を唱えているようでした。
なかなか飛び込まず時刻を気にしたりしているので参詣者の中には訝しく思ったり飽きてしまったりで、少しずつ帰ってしまい見物客は減っていきました。
夕刻になり薄暗くなってきて、聖はふんどし一丁になり川に飛び込みます。泳げないらしくゴボゴボやっているので河原の他の僧たちがふんどしの端をつかんで聖を救い上げます。
聖は、このご恩は極楽浄土で返しますと顔を手でぬぐいます。そうは言いながら再び川に飛び込もうとしません。
怪しいと思って追いかけてきた見物人や子どもらが石を投げつけました。聖の頭に当たり割れて血も流れます。聖は逃げて行ってしまいました。
だいたいこんな感じだったと思います。聖(僧)は初めから死ぬ気など無かったのです。詐欺まがいのパフォーマンスでした。
それにしても参詣者も実はパフォーマンスと判っていて、どこかで川から救い出す人員を契約しているのではないか、それで追いかけて石をぶつけてやろうと思っていたわけです。
昨今日本人は騙されやすいと言われていますが、豊かになって疑り深くなくなったのかもしれません。
平安後期鎌倉初期だとするとすでに法然も親鸞も現れています。阿弥陀を唱えるだけで成仏できるとか、唱えなくても仏さまが代わりに唱えてくれるので信心だけで成仏できるとか、時代の潮流だったのでしょうか。
異説ではパフォーマンスの聖は川の下流に舟を待たせておいて泳いで舟に救い上げてもらう手筈(契約)にしているかなり悪質な詐欺僧もいたということです。
悪質と言えばそうですが、伝説として残っているのですから、なかなか日本人も宗教観や文化に幅があり、ふところも深いなと逆に思ったりします。
ふと思うと、自殺することで往生し成仏できると考えた時代があって、どんなに短い期間だとしても信じていたことは非常に驚きではあります。