昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

一ツ木通りの商店

 一ツ木町のY君のうちは一ツ木通りの裏にありました。

 一ツ木通りは百貨店の名が付く店があったり、金物店、豆腐屋Iさん、肉屋のI屋、古本屋、文房具店、A写真館、そば屋が二軒、スマートボール、メガネ店、甘味処S、甘味処T、果物屋I、本屋Kなどなど。

 Y君のうちに遊びに行ってピンポン玉で野球をやりました。路地と植木がひしめき合っているところで投げて打つだけの野球です。ひまわりやアサガオが咲いている路地です。その路地はコの字の袋小路になっていました。

 本屋Kさんの娘さん(昭和一桁生まれ)は甘味処Sにお嫁にいきました。旦那さんは旧制A中学から陸軍兵学校に進んだそうです。

 肉屋のI屋は平成まで店があったように記憶していますが、豆腐屋のIさんは早い時期に喫茶店になり、今は喫茶店も残っていません。ここの御主人はうちの両親の仲人です。

麻布笄町

 小学5年の時に麻布笄町のT君のうちに遊びに行きました。


 ハッサンと溜池で待ち合わせて他にも新町のT君や一ツ木町のY君もいっしょだったと思いますが、都電はもう廃止されていたかもしれず、バスで行ったような気がします。


 六本木を通って霞町の停留所で降りました。そこでT君とクラスメイトが待っていました。ここは知っている人が多いと思いますが、現在の西麻布の交差点です。歩いて2、3分のところが笄町のT君のうちでした。


 6人ぐらいでオジャマしたのですが、寿司の出前をごちそうになりました。ぼくは普段はさび抜きでしたが、この時初めてわさびの洗礼を受けました。わさびをまともに舌に受けてしまい、目を白黒させたのを覚えています。


 T君はお兄さんもいたせいか、12チャンネル(テレ東)の金曜スペシャルのことなどほがらかに話す人でしたが、家族といっしょの時は品行方正でした。子どもの時から少し目が青く天然パーマで茶髪ぎみでした。



 彼は大人になって海外のセレブが集う国でレストラン経営をするまでになりました。

赤坂の駄菓子屋

 赤坂の新町に平野屋という駄菓子屋がありました。




 一ツ木通りからちょっと路地を入ったところです。赤坂の子はみんな知っているところです。
 ラムネはもちろんありましたが、当時コカ・コーラもすでに売っていましたね。


 麻布笄町から遊びにきたT君がコーラをラッパ飲みしているのを見て感心したのを覚えています。炭酸飲料もコーラとなると大人の雰囲気が漂っていましたから、それはぼくが勝手に思っていただけなんですが。



 平野屋のおばさんはやさしい感じの自然な雰囲気の人でした。おばさんと言っても当時は40歳ぐらいだったかもしれません。



 駄菓子屋の路地かどうか記憶は曖昧ですが、
 畳屋のSさんもあったと思います。Sさんのおばさんは三味線も弾きます。メガネ屋のKさん(4丁目)と仲良しでした。
 それと並びには酒屋のNさんがありました。
 Hさんの「F」のビルもあります。この辺り赤坂3丁目ですね。



 ちなみに駄菓子屋さんは現在モダンな飾味処Hになっています。

青山一丁目交差点近くの銭湯

 たまたま、うち風呂が故障して青山一丁目交差点近くの銭湯まで母と歩いて行ったことがあります。現在で言うとHONDAのショールームの裏だったと思います。だいたい南青山二丁目あたりですね。当時は青山南町と言いました。参考までに、若尾文子主演の映画「青空娘」をご覧になってください。青山南町の地名も実写も出てきます。

 当時3歳ぐらいで、銭湯は初めてでしかも周りは女性ばかり。びっくりしてバランスを崩し洗い場のところで仰向けにころんでしまいました。今でも銭湯の高い天井の模様が目に浮かびます。

 赤坂の一ツ木通りにも銭湯はあった気がしますが、一度も利用したことはないです。青山の銭湯も1回かぎりで二度は利用しなかったと思います。

 昔は今みたいに頻繁に風呂に入らなかったような気がします。二日にいっぺん、三日にいっぺんぐらいじゃないでしょうか。

お肉屋さんのとんかつ

 丹後町にY精肉店がありました。晩ごはん用に揚げてあるとんかつを買うのですが、妹が生まれるかどうかのころですから実質上家族4人で、薄いとんかつ(ハムかつとは違うもの)を2~3枚買います。

 とんかつは3種類ありまして大、中、小の順に70円、50円、30円とありました。売れ行きの状況にもよったのでしょうが、50円の場合3枚、70円の場合2枚とかそんな感じでした。枚数が揃わない時や給料前にはメンチやコロッケが多くなります。

 ぼくの中ではとんかつは大人の食べるもの、めったに口にはしませんでしたし、コロッケよりメンチのほうが格上に感じていたのでメンチ専門でした。

 母が嫁に来る前に祖母と父は表町のYさん(民家)の裏に小さな家を建てて住んでいました。家族同士で言う時はすずめのお宿と呼んでいます。父と母が結婚という時に50メートルぐらい離れた同じ表町に家を新築し、母も引っ越しの手伝いをしました。リヤカーを使ったそうです。

 その朝母は早めに来て丹後町のY精肉店に寄って生卵2個を店先で飲んだそうです。

 Y精肉店の娘や何人かと表町の空き地で遊んだ記憶があります。その娘は交通事故で亡くなったと後年聞きました。