昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

永井荷風 終戦のあとさき

 一般に知られている東京大空襲は昭和20年の3月10日です。


 ですが永井荷風の『断腸亭日乗』には3月9日の夜10時過ぎに空襲警報が出ていたと記されています。
 空襲警報はいったん解除されてそれでも日付が変わりすぐに3月10日午前0時8分からB29が334機も夜間爆撃を行ないました。
 家屋焼失約27万戸、死傷者約12万5000人、罹災者約100万人でした。


 荷風の麻布(六本木)の偏奇館も焼失しました。
 枕元に革のかばんを置いてあったのを持って命からがら逃げ出し、荷風は呆然と自宅が焼け落ちるのを眺めていたといいます。和漢洋の蔵書が燃え消えてしまうのを命同然に喪失感をもって見ていたのでしょう。


 その後、代々木の父方の従弟にあたる長唄の杵屋五叟の家に避難し、作曲家菅原明朗夫妻の東中野のアパートに転居します。


 けれども、5月25日の夜の空襲で焼き出され、駒場の知り合いのピアニスト宅に起居しました。6月2日菅原夫妻に同行して明石に移ります。さらに6月20日には岡山に移ります。


 6月29日午前2時ごろから岡山も空襲に遭います。荷風の止宿していた旅館「松月」が焼失します。まるで荷風を空襲が追いかけてくる様相です。


 7月3日には岡山市内の知人の広い邸宅の部屋を借ります。
 
 その間6月ごろから谷崎潤一郎と文通を交わしていました。谷崎は岡山県勝山町の山間部に疎開していました。


 8月13日荷風は谷崎宅を訪れました。この際、牛肉や豊富な具材のすき焼きをご馳走になりました。


 翌日、ポツダム宣言受託となります。


 8月15日午前荷風は汽車で勝山を発ちます。
 車中にいたので正午の天皇のラヂオ放送は聞いていません。「朕深く・・・」は聞けなかったことになります。岡山に着いたときに終戦と知るわけです。
 ですが、当日の朝刊には「けふ正午重大放送」と見出しが出ていますから大まかには分かっていたと思われます。


 8月31日岡山を発って9月1日熱海の杵屋五叟の疎開先に起居しました。


 戦後の昭和21年には杵屋五叟に同行して千葉県市川市に間借りしますが、1年後同じ市川市内のフランス文学者小西茂也宅に移りました。


 ここから荷風の戦後は始まりました。



  (参考:『断腸亭日乗』、『永井荷風巡歴』)

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