納涼船遊び 屋形船 花火大会
両国川開きの花火見物は船宿の船が数日前から皆売り切れとなり、当日は川を埋めた船づたいに向こう岸まで歩いていけると言われたくらいでした。
風流の遊客は隅田川の川上から笙、篳篥を吹いて楽しむ者や、碁、将棋を打つ者がいました。
文政四、五年ころから屋根船で銅鑼、拍子木を打ち鳴らしたり芝居のモノマネをする者(蔭芝居)がいました。
壱両が花火間もなき光哉 其角(五元集)
川涼み小判流せし其噂さ 抱一(軽挙観句藻)
慶長のころ、夏の暑い日には人々が涼をとるために、ひらた船(底の平たい船)に屋根を作り、レンタルで浅草川を乗り回しました。これが船遊びの初めです。
旗本は鎗を船に押し立てこれを見栄としました。最も大身は用人にもじ(麻糸をもじって目をあらく織った布)の肩衣を着させるものもいました。
天和には大屋形船が一時禁じられました。追いはぎや殺人事件が起きたからです。犯人は小山田弥市郎という盗賊です。他にも事件はいろいろあったようです。
その後、宝永三年には屋形船百艘と定められました。
ところが「あやかし舟」というのが現れて他の屋形船で歌ったり踊ったりしているそばに行って大太鼓を思いきり叩いて邪魔するので、止むを得ず金銭を与えてひきとり願うと、次の船に行って同じことを繰り返す次第。金が少なければ退散しなかったので、しまいのは相当な金額を得たという話です。
あやかし舟は寛政年間以降無くなっていきました。
屋根船は「日蔭船」の別名。大坂の茶船に似ています。
船賃は柳橋から山谷堀までの場合、船頭一人乗りで三百文、二人乗りだと四百文でした。
献立程ㇵ出来ぬ屋根舟(俳諧けい)
屋ね舟でしやうをふいてるべらぼうさ(柳多留)
やね舟のへさきへ立てのびをする(川栁)
やねふねでまゝ事をした妾也(誹風柳多留拾遺)
屋ね船で高まんをいふにわか雨(柳多留)
川開きの花火は、玉屋が両国橋の上流で、鍵屋が下流を受け持ちました。玉屋の打ち上げた花火が落ちて積み込んだ花火が残らず燃え出しみんな川に飛びこみました。
玉屋の倅は泳ぐことが出来ず溺死したことがありました。
花火見るたび御妾ㇵ笑ふ也(柳多留)
小屋涼し花火の筒のわるゝ音 其角(五元集)
(参考:中央公論新社)