港区の歴史 その1
『港区の100年』から抜粋します。
麻布區役所:明治11年7月22日「郡区町村編制法」が発布され、同年11月2日、これまでの「府下11大区69小区」を「15区6郡」に分割する。麻布區は15区に一つとして同年11月4日、麻布區宮村町63番地「龍澤寺」内に開庁した。その後、麻布市兵衛町へ庁舎を新築したが、老朽化と手狭になったため明治42年6月改築された。
赤坂區役所:明治11年7月22日「郡区町村編制法」により、同年11月4日、表町三丁目5番地に開庁。その後表町一丁目11番地へと移転。青山通りの整備により、皇宮地の飛び地が発生したため、赤坂警察署および赤坂區役所用地として払下げを受けた。赤坂區役所は、新庁舎を建設して明治24年11月に竣工した。2階建てレンガ造りの洒落た庁舎だった。
赤坂區役所日露戦争凱旋門:日露戦争が明治38年に終結し、各地で祝賀ムードに浸った。新橋、日比谷などにも「凱旋門」が造られた。赤坂區役所前にも造られた。(薬研坂入口附近)その門の下を東京市街鉄道(後の都電)が走っていた。
止まった時計:激震に襲われたため、札ノ辻に設置されていた時計が止まってしまった。時計の針は、関東大震災発生時を示す午前11時58分で止まっている。
歩兵第一連隊:赤坂檜町にあった「長門萩藩約37万石毛利邸」は元治元年(1864)に没収され、徹底的に屋敷を破壊された。破壊された屋敷の木材は湯屋などの焚き木に利用されたという。この跡地に「歩兵第一連隊」が駐屯した。のちの昭和11年2月26日、いわゆる「二・二六事件」では、ここから大勢の兵士が参加した。
青山練兵場:大名や旗本の屋敷を陸軍用地として買収し、明治19年に設置した。総面積は約5万6000坪。明治20年以降、日比谷練兵場の代替地となる。日露戦争後、明治39年4月30日に「陸軍凱旋観兵式」が挙行された。
赤坂溜池工部省:葵町(現・虎ノ門二丁目)の肥前佐賀藩松平(鍋島)肥前守邸を明治3年に政府が接収し、「勧攻寮」に利用したが、明治7年6月から「工部省」となった。しかし、明治19年12月には「海軍省」が置かれた。
(参考:郷土出版社)