ゴキブリ コバエ 江戸の虫売り 虫籠
ゴキブリ対策のためにコン〇ットの類似品を買って寝室とキッチンと洗面所に置きました。あの日以来見ていません。
同時にコバエ対策に〇―ス製薬の〇ポナをノートパソコンの脇に置きました。匂いはいいです。アクアソープの香り。
でもコバエには効きません。〇ポナの脇を何食わぬ顔でコバエが散歩しています。ヘルパーさん曰く他のメーカーの虫除けも効果がないとか。
そのくせ平気で至近距離に来るのでティッシュで捕まえると簡単に捕まえられます。ティッシュをつぶす時「ピキッ」と言います。
以前のコバエは素早くてそうそう捕まえられませんでしたが、最近のコバエはうまいものを食べているせいか肥えて逃げがゆるくなってる、とヘルパーさんは分析します。
江戸の虫売りは路傍に置いて売っていたようです。季節的にはその前に陰暦六月ごろ、虫干しという行事がありました。昭和30年代まで特に商店などは虫干ししていたように思います。古本屋さんなどは平成の今でもやっていると思います。
梅雨の合い間をぬってやっていたんでしょうね。陰暦六月って現在では今ごろじゃないでしょうか。
今年は梅雨も何も区別なしに気象庁は困っていたようですが。
虫籠
『根元実紫』(嘉永五年)によると、
虫売りの虫は、蛍を第一とし、次いでこおろぎ、松虫、鈴虫、轡虫など声の良いものを売りました。
江戸には盆になると飼っていた虫を放す習慣があって、盆過ぎには売れなくなるため、虫売りは六月上旬から盆までの商売でした。売り廻るのは珍しいことで、普通は屋台を路傍に置いて売ります。
虫籠は江戸は精巧で扇形や舟形などいろいろと手の込んだものがありました。
「六日(寅の日なり)神楽坂上善国寺毘沙門天に参詣、諸商人多き中に、実に早きと思ふは虫売りにて、蟋蟀(きりぎりす:尾張でいふギリッチョの事)鳴居し故、大にほめたれば、虫売の云ひしは、当年は閏も有レ之候へば、二月中には出そうとぞんじましたが、大におくれましたと云。値段は何程と聞ば、毎も御交儀様へさし上候は銀九拾匁定御直段に御座候へ共、あなた方へは金百疋もにて差上申候と答へぬ。(此外ほたる金壱朱ずつのよし。)」(『江戸見草』)
神楽坂善国寺毘沙門天
銀九十匁(一両二分)は延享(1744-48)頃の女中の給金とほぼ同額。金一朱は現在の金額に直すと四千円くらいです。
ちなみに、明治四十三、四年頃の虫の値は、虫売りが最初に顔を見せる五月二十八日の不動の縁日で鈴虫が六、七銭、きりぎりすが二十五銭、邯鄲(かんたん)が二十銭、閻魔こおろぎが六、七銭と比較的に高値です。これらは虫屋が育てたもので、野生のものが出るにつれて安値になりました。
邯鄲
また、虫籠は並物で三銭から五銭くらいしました。籠の形は地形、船形、灯籠形の三種類。
蛍籠は丸と角の二種類で、古羽織の黒絽が張ってありました。
明治四十二年の銭湯代は、大人三銭小人二銭。一俵(六十キロ)の値は四十三年に五円三十六銭、四十四年に六円十六銭。もりそばは四十四年に三銭五厘。当時、虫の値がいかに高かったがわかります。(この辺は著者に異論あり。きりぎりすは高いと思いますが他は驚くほどではないと思います。)
虫売りㇵ折ゝ蛍かきたてる(やない筥)
虫うりのむごつたらしいらうずが出(柳多留)
(参考:中央公論新社)