昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

バブルのあとさき

 先日のバブル期の記述は事業用でした。少し補足しますと、居住用は23区内に引っ越し可でしたが、事業用に関しては23区内は不可でした。限定された地域のみ買い替え可能の対象でした。

 札幌とか博多は当時想定外でしたが、実際のところ武蔵野市、三鷹市、町田市、多摩市、国立市、国分寺市、府中市、調布市、神奈川県横浜市緑区、青葉区、川崎市麻生区など限定されていました。それであちこちの物件を探すことになりました。

 たまプラーザとか鷺沼、宮崎台、溝ノ口など田園都市線沿線だとか相模大野、町田、柿生、新百合ヶ丘など小田急線沿線、聖蹟桜が丘、分倍河原など京王線沿線を見て歩きました。

 武蔵野市、三鷹市はたぶん方位かなんかの関係で想定外だったと思います。


 居住は世田谷区内に決まって、思い出すのは昭和62年か63年ごろ、桜上水駅で特急通過待ちしている時でしょうか、弁当箱のような本体からトランシーバーみたいなものを取り出して「ああ、そっちは3億で決まったから・・そうそう」とか喋り出す30代半ばぐらいの男がいました。車内は座っている乗客が誰も喋らずシーンと静まり返っていました。まだラッシュ前の時間だったので、その男の話し声だけが車内に響き渡っていました。

 ケータイが普及する前ですから乗客たちは固まっていました。男はぼくのはす向かいに座っていました。ぼくは所在なげに夕陽をながめるふりをしました。他人事なのに非常に恥ずかしかったです。


 バブルのころ、六本木でタクシーを拾うに拾えなかったとか、万札を持ってヒラヒラさせて停める方法があったとよく聞きます。チケット使い放題とか。

 あと言葉遣いも、語尾上げや「~じゃないですかー」「なんだろ、・・」とか会話に織り込む言い回しが普及しました。ぼくの感覚では村上里佳子(RIKACO)が言い出して流布した印象があります。バブル世代の人は言い回しに上のような特徴があると思います。本人しか知らない事実を「私って〇〇じゃないですかー」とか話し出されたら、戸惑います。


 でもふつうに団塊のおっさんが語尾上げでしゃべっていると、バブルの名残りか子どもの影響か交友関係に若い人がいるんだなあと思ったりします。

 語尾上げはすでに70年代にありました。小金井市のA君が言い始めたと思っています。ぼくらの世代で言い始めた感が強いのは「意外と」です。大正生まれの父が不思議に思っていたようです。

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