昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

神楽坂界隈 戦前戦後

 神楽坂界隈は花柳界が昔からあって現在でも片鱗は伺えます。でも石畳のあるところはまだしもビルやマンションが建ってしまうと以前何があったか思い出せないものです。


 『熱情 田中角栄をとりこにした芸者』T・K著という本には昔の大ざっぱな地図が載っています。以下は推測だったり、記憶の受け流しだったりしますから間違いがあったらお許しください。


 この著書によりますと、戦前の検番(見番)は神楽坂通りの鳥茶屋別邸と銘茶楽の間のみずほ銀行ATMあたりか、あるいは五十番の並びセブンイレブン(以前は酒屋)あたりにあったのではないかと思います。


 戦後の検番(見番)は神楽坂通りの向かい斜めの路地を入っていったところです。
 今は広めの駐車場になっています。裏側は神楽坂組合になっていて、フレンチの店がある路地を歩くと三味線のおけいこの音も聴こえてきます。



 金満津という芸者の置屋がありました。
 これは旧と新がありまして、旧金満津の跡地はその後テレビドラマの制作会社になったようです。現在はざっくり言えば高層マンションになっています。
 新金満津は、うを徳並びの軽子坂の中腹にあったと思われます。


 それから待合というのがありまして、毘沙門天の脇の路地を入っていったところにありました。
 ここは現在中層マンションが二棟建っています。毘沙門天に近いほうは芸者置屋という記録もどこかで見たことがあります。上記の本にはそういう記述がありません。早くに駐車場になりました。後年マンションが建ったのです。


 もう一棟のマンションの敷地は、角栄のロッキード事件以後小佐野賢治が買いました。松ヶ枝というところですが、戦前は待合で戦後料亭になったそうです。戦後まもないころは桃山という屋号だったようです。後年料理屋さんなどが建ち並んでいたようですが、今はマンションが建っています。


 Tさんはここからほど近いF町に住んでいました。
 その先へ行くと南北の道路があります。最高裁長官公邸(武家屋敷のような外壁)は外堀通りから逢坂を上りきったところにあります。その南北の道路は大久保通りに抜けられますから大型トラックなどが抜け道に使うようになりました。近隣の閑静な環境を侵しているような気がします。
 現在は最高裁長官も住んでおらずポリスボックスもありません。


 その道路から近いM町に角栄の邸宅がありました。待合のすぐ近所に妾宅さらに5、6分のところに角栄の本宅があったわけです。昭和28年に目白台に引っ越すまではそこに住んでいました。


 Tさんは後年やはり近所の見晴らしのいい高台に引っ越しました。マスメディア等は知っていますが、ここでは伏せます。


 角栄の土建会社は、飯田橋駅のガードの南側の角に靴屋があってその並びにそば屋とか牛丼屋がありますが、二筋めの路地を入ったあたりにありました。

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