昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

小田急線 京王線

 小田急線の複々線化によって便利になりそうです。小田急多摩センター駅と京王多摩センター駅は以前から近くだったと思いますが(一度しか行ったことがないのでうろ覚えです)統合することによって利用者の幅が広がるようです。

 多摩センター付近住民の中には新宿へ行くときは座れるので小田急線を利用し、帰りは京王線を利用するなんていう人もいるようです。


 複々線化は各駅停車が準急や急行などの待ち合わせなどせずに済むし、ラッシュ時の混雑緩和も望めそうです。

 それと開かずの踏切対策も全面解決しそうです。東北沢~和泉多摩川間にあった39本もの踏切が何と0本になるそうです。開かずの踏切は1時間中53分閉じていたそうですから交通事情もずいぶん変わりますね。

 和泉多摩川駅はけっこう前に新しくなったと思います。1970年代友だちがプールの監視員のバイトをしていたので、降りたことがありますが田舎の駅舎みたいでした。


 下北沢駅が地下になったのを実はまだ目の当りにしていませんが、1970年代はずいぶん踏切には泣かされました。金子総本店前はもちろんですが、世田谷代田駅との間の踏切も2,3本ありました。2本の踏切を結ぶUの字道路の谷間にメンマ(シナチク)工場がありました。後年スポーツジムになりました。昭和50年代この踏切で往年の名わき役多々良純とすれ違ったことがありますw。D町に住んでいたのは知っていました。


 腹が立ったのは東北沢駅の東側の踏切です。準急とか急行をやり過ごし、まだ踏切が開かないのでなぜだろうと待っていると各駅がホームに着いて発車するまで待つことがありました。もしかしたら各駅が停車して1、2秒間開いたかもしれませんが、瞬時にまたカンカン鳴り出して閉じてしまった記憶違いかもしれませんが、どちらにしても腹立たしかったです。

 そうすると世田谷代田駅の下北沢方面の小さい踏切も無くなったのでしょうか?歩行者と自転車しか渡れない踏切でした。あと梅が丘方面の環七の脇の踏切も無いんでしょうね。あそこは確か環七ができる前からあった旧幹線道路のようです。環七の上側はガードになっていました。

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