昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

嫁姑

 父は昭和61年の夏に病死しました。葬式など終えて一段落したころ、食卓で祖母が母に言った言葉が印象的でした。

 「〇〇ちゃん、帰りたければ、帰っていいんだよ」

 えっ?ぼくは一瞬意味が判りませんでした。要は亭主が死んだから家と離縁して郷里に戻るか?という提案です。嫌味でも何でもなくニュートラルな一言でした。母も虚を突かれたみたいな表情でした。この時点で母は60歳、祖母は84歳でした。

 嫁姑って他人なんだなー、当たり前ですけど改めてそうなんだと思った次第です。

 ぼくにとっては祖母も肉親、母も肉親、嫁と姑は理屈では判っていても日ごろは忘れています。

 でも逆にいえば母も自身が嫁ということを忘れたことはないし、祖母も息子に嫁をもらったという意識が日ごろからあったのかもしれない、と感じました。


 ぼくの世代は団塊に比べれば人数は少ないですが、今の人よりは多い。でも昔の人は6、7人の子どもはざらで、母も8人きょうだいの三女です。父は祖父母が早くに離婚したので一人っ子でした。待機児童とかいう言葉も無かった時代に、どうやって子どもを育てたのだろうと思ってしまいます。専業主婦が圧倒的に多かったんでしょう。あと舅姑と同居も多かったと思います。お嫁さんが家事をやる時は姑が赤ん坊を見て、分担してやっていたんだろうなと想像できます。家が立派であろうがなかろうが同居で嫁が我慢する時代だったんだろう、と。パートに出る時も保育所に預けるばかりでなく姑が見ていたのかなと想像できます。

 うちは全く違って祖母が外で働いていましたから特殊ですが。祖母が出勤した後、母はお釜のご飯でおむすびを握って足りない腹を満たしていたと聞きます。


 母は祖母が91歳で亡くなるまで嫁として仕えました。父との結婚生活は33年ですが、嫁姑の関係は40年余り。40年は長かったでしょう。

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