昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

フリーインプロヴィゼーション コミュニケーション

 フリーインプロヴィゼーションはある程度流れが決まっているものもありますが、完全なフリーもあります。初対面のミュージシャンとの共演もありました。
 知り合いとのフリーは合わせたり合わせなかったりいろいろです。合わせるというのは相応な対応をすることです。自然に反応してしまう音を出します。合わせないときは共演者の演奏に関係なく自分の流れを保持します。


 僕らの時代(80年代)は合わせるとダサいという風潮でした。もっとも露骨に合わせることを回避するためにそういう表現をしたんだと思います。合わせるにしても間接的に合っていればダサくないんでしょう。ただ聴く人によっては平凡だと評価するかもしれません。


 だからと言って全く合わせないのがカッコいいのか、これも難しい問題で、物理的に共演者の音は聞こえているわけですから心の中で合わせないという意識が働いています。
 そうすると無理が生じて頑なな印象になります。依怙地になっているみたいでそういうことは聴者も敏感に感じ取ります。


 話は違いますが、会話も噛み合っていない場面がありますね。「聴く力」とか言葉が流行っていますが、ひとによって解釈はまちまちです。聴く力だからと言って問い詰めるタイプもいます。質問攻めが聴く力だと解釈しているひとも多いようです。相手の話の腰を折ってでも問うことに専念している場合もよく見受けます。
 トーク番組などは台本があって流れで質問攻めにしないと時間がいっぱいになるからでしょうが、ゲストの話すペースで聞きたいときはちょっと黙っていてくれと思うこともあります。


 相づちのつもりでも長い相づちだったり、先回りして誘導したりで、話し手によっては気を削がれることもあるだろうなと感じます。
 時には補足を入れる場合もあります。ありがたい補足なのかそうでないのかは時と場合によりますが、聞き手は良かれと思ってやっていることなのであまり責められません。


 ずっと黙って聴いていたら話し手が本当にこの人は聴いているんだろうかと不安になるかもしれません。そう思い出したら、どんどん負のスパイラルに陥るのかもしれませんね。難しいです。


 フリーインプロヴィゼーションは会話(対話)よりは奔放です。それでも無意識に間接的にどこかで合っている相手のほうがやりやすいというのが本音のようです。聴者にとって新鮮に聴こえればOKなんだと思います。
 ここで自由としなかったのは、カント的には自由というのはある一定の倫理を守って成り立つ、ということが念頭にあったからです。


 あるサックス奏者はフリーインプロヴィゼーションの際、全然音を出さずに共演者の音を聴いていました。演奏の最後に「パフッ!」と一音吹いて終わりました。そういうフリーインプロヴィゼーションもあったのです。これは別にジョン・ケージの受け売りではなく自然にそうなったのだと思います。

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