昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

山王下 弁慶橋

 小学校の友だちと遊んだなかに、日枝神社のふもとの池で釣りをしたことを思い出します。「山王さんで」さん付けなのか山なのかはっきり判りません。自分の釣竿を持っていたのかハッサンのを借りたのか忘れました。だいたいハッサンが発信元だったような記憶があります。

 針の先にうどん粉を水で練ったものを刺してクチボソとかを釣ったと思います。魚の名前ははっきりしません。水疱瘡に似ているなと思ったのは覚えています。


 弁慶橋に足を延ばして弁慶堀でも釣りをしたことがあります。アメンボ、みずすましなどがいました。アメリカザリガニもいたかもしれませんが、飼うのに大変そうなので敬遠していたと思います。


 釣りが無い時はもう少し先の清水谷公園まで行って遊びました。ここは小高い山道みたいなところもあって子どもには十分冒険心を満足させるところでした。どうやって遊んだのか記憶がありませんが、ちょっとしたサバイバル感覚でいたような気がします。

傳馬町は今のどこ?

 傳馬町と言っても日本橋小伝馬町ではありません。赤坂に傳馬町という地名があったのです。現在は元赤坂ですね。四ツ谷からぐるっと赤坂見附まで車で降りてくると前田外科病院がありますね、あの辺です。

 小学校1年生に入りたて同じクラスのホッサンに追いかけられました。意味はないです。子どもなので追いかけごっこをしてたんです。プールを蓋するように板が敷いてありまして、ぼくはそこでころんだのです。ホッサンはリレーの選手でした。

 うちに帰ってから頭が痛いので急遽前田外科で診てもらいました。レントゲンを撮って調べましたが、幸い大事には至らなかったです。

紀尾井町の大谷邸

 昭和35年、先生の引率でN幼稚園から大谷邸まで歩いていきました。ニューオータニが建つ前です。大谷邸になる前は伏見宮邸でした。紀尾井町も千代田区の前は麴町區でした。

 大谷邸の広い庭には大きな石や岩があり馬の形をした銅像のようなものもありました。園児たちは大はしゃぎで遊び回りました。

 大谷邸のはす向かいに住んでいたYさんはご近所の庭で遊んでいるような心持ちだったのでしょうか。美人で大人っぽかったですが、現在は長野県に住んでいます。

草月会館でのザ・ヒット・パレード

 テレビでザ・ヒット・パレードの野外生中継がありました。
 昭和37年ごろでしょうか。前にガーデンと書きましたが正式には何と言うのか知りません。草月の裏側に広い野外スペースがありました。そこで番組の生中継があったのです。


 どうして生と断言できるかというと、テレビで見ているうちに現物で見たくなり、うちを飛び出し高橋是清公園に走りました。公園の植木の間から路地をはさんで草月の野外スペースが見えます。


 ザ・ピーナッツとかミッキー・カーチスがいたと思います。よく見えないので、植木によじ登って観覧しました。ライトが煌々と照らされていました。


 実はうちに戻ってテレビで見たほうがよく分かりました。ロックンロールを歌う男性歌手の両足の間にカメラを設置し、仰ぐようなアングルで見せます。当時としては斬新だったと思います。


 夜風呂に入ったらぼくの股がかゆいのです。赤くただれていました。


 医者に行って訊いてみると植木に跨いだときに花粉が半ズボンのすき間から入ったのだろうと診断されました。

草月ホール

 草月ホールは後年知ったんですが、かなり実験的な芸術の場でもあったそうですね。1956年ごろ建立されたとすれば50年代60年代の最先端の人々が集っていた、と。


 ぼく個人での感覚はちょっと違います。うちの狭い庭から草月のガーデンを見た感じはもっと具体的でした。三善晃のヴァイオリンソナタを聴くと草月の裏のガーデンを想い出します。それに隣接していたCマンションの雰囲気も加味され昭和を連想します。



 昭和と言えば西田佐知子の「くれないホテル」を聴くと草月の隣にあった豊川旅館、これを連想します。くれないホテルに登場するホテルはもう少し後の幾分洋風なホテルだと思いますが、そんなことはどうでも良くて、ホテル(温泉マーク)の建物というのはどこか裏さびしいものがあります。

西田佐知子 くれないホテル



 不思議なもので武満徹を聴いても草月を連想しません。まだ黛敏郎のほうが感覚としては近いです。
 昭和31年に建てられた草月会館はその後(昭和53年)に新築されたものと大きく違います。
 1960年代当時の映像は安部公房原作「他人の顔」勅使河原宏監督の映画をDVDなどで見てください。ラストシーンでぞろぞろとエキストラが大勢出てきますが、その建物がそうです。