子ども食堂 (一部訂正)
江戸時代の寺子屋はめいめい子どもが座って一、二人ずつちゃぶ台のような小さな文机の上で読み書きをしていたそうです。教師は子ども一人ひとり廻って教えていたといいます。
教師が教壇に立って生徒が全員教師のほうを向いて机を並べるようになったのは維新後と言われています。
現在子ども食堂はシングルマザーなどが働いている時間に、提供される場なんだと思いますが、たいがい儲けは少なく慈善事業のようです。
味はいいようですし、子どもの中には宿題まで済ましています。
あと大阪でしたか、給食が不味すぎて残してしまう、というのがニュースになっていました。メニューの盛り付けを見ると確かに彩りが地味で味が薄そうだと思いました。でも残してしまうのは我々の世代では先生に叱られてしまうし、手を付けずに残してしまうというのは考えられません。
昭和30年代の小学校の給食は不味かったです。自分も一年生のとき不味くて残せないので泣いた覚えがあります。
実はメニューはあまり覚えていないのですが、白滝の入った肉じゃが風のものとか煮物が多かったと思います。
牛乳はめったに出ませんでした。牛乳は年に二、三度でクラス会とか何かの記念日だけでした。牛乳はテトラパックでした。何かの拍子にコーヒー味が出てきたら歓喜のあまりワクワク感が止まらなかったです。(白い牛乳も苦手でした)
一年のほとんどは言わずもがな脱脂粉乳でした。6年生までずっとです。
この大きめのポットのカンカンの音は覚えています。取っ手を放すと胴体に当たって「カンッ!」と鈍い音がするのです。わびしい音でした。
脱脂粉乳でもコーヒー味の時は少し気が楽でした。
他に人気のメニューは、
一位がカレーシチュー(あまり記憶にないです。クリームシチューが多かった)、
二位は揚げパン、
これもたまにしか出なかったように思います。たいがいは食パンです。耳のついた食パンで耳だけ残したら「額縁食べ」と言って先生に叱られました。
三位は鯨の竜田揚げ。
箸は付いてなかったです。先割れスプーンです。コッペパンでさえあまり出なかったと思います。
笑い話のようですが、肝油が甘いのでデザートかスイーツのつもりで食べるのが楽しみでした。
給食は戦前からあったと言われていますが、戦後の給食は昭和20年から始まりました。シチューは21年から、中身はミルクににんじんとじゃがいもと他の野菜をきざんだものを混ぜ込んだだけのもの、でした。
学校給食感謝の歌がありました。
「朝から早く 学校で PTAのお手伝い 真心こもる給食を 共にいただく 昼餉(ひるげ)どき みんなで思う父母の恩 おいしい給食ありがとう」
作曲は大津三郎先生、ぼくら生徒たちは陰で陸上カッパとあだ名で呼んでいました。テッペンハゲだったからです。今や自分がテッペンハゲになってしまいました( ̄∇ ̄;)。
脱脂粉乳については昭和38年に論争になり、60年安保の勢いも影響してか昭和40年代に牛乳に変わりました。それまでの二十年間ぐらい生徒のお腹が下って学校のトイレが汚れたといいます。いくら戦後生まれの生徒にしても脱脂粉乳は飲み慣れなかったのです。
パン食の習慣が広まったのも団塊や我々の世代が始まりです。
一説にはGHQの陰謀だと聞きます。小麦を売るための工作、もしくは実際脱脂粉乳も家畜のエサだと抗議しても一度は却下されたのです。
ただ昭和42年ごろは不思議な境界線があり、港区では脱脂粉乳、世田谷区では牛乳という一見あべこべな現象です。これはアメリカ大使館の位置とか配送の問題に関係しているかもしれません。
でも脱脂粉乳は肥満防止には役立ったようです(苦笑)