我思うゆえに我あり
デカルトの『方法序説』の有名な一節「我思うゆえに我あり」はラテン語だと「コギトエルゴスム」だそうです。でも実際の本文はフランス語です。あの時代はラテン語で書くのが常道でしたが、一般市民にも読んでもらおうとフランス語で書いたのです。
「我思うゆえに我あり」は「神も世界も自分も存在することは疑うことができるが、疑っている自分の精神は疑い得ない」ということだと思います。これは「方法的懐疑」といいます。
『方法序説』の正式タイトルは『理性を正しく導き学問において真理を探究するための方法の序説。加えてその試みである屈折光学、気象学、幾何学』です。
ただ、コペルニクスやガリレオ・ガリレイのような人が地動説を唱えて、諸国を逃げ回ったり処刑された時代ですから、デカルトは内容を少し変えた、もしくは偽名で出版したと思われます。(うろ覚えです)
デカルトはコペルニクスやガリレオを密かに信奉していたと思います。スコラ哲学への疑問はありました。でも完全に抜けきったとは思えません。
キリストの神に疑問は持っても人間の精神というのは神のコントロールがある、つまり神が存在するという考えには疑問を持たなかった印象があります。
個人的には自分の精神に神が見え隠れするとか、心身二元論は全く面白くありません。
ドイツ周辺ではカトリックとプロテスタントによる三十年戦争の時代になります。デカルトはカトリック軍に参加しました。
何かそういうところはスピノザと違う気がします。36歳若いスピノザのほうが徹底していて潔さを感じます。ちなみにデカルトは1596年生まれでスピノザは1632年生まれ。スピノザは三十年戦争のさ中に生まれたせいなのか、宗教のマイナスイメージの影響はあると思います。(スピノザの神は分かっていませんが)
さきほど”方法序説”で検索しましたら、分かりやすく整理されてまとめてあるブログがいくつも出てきました。なのでここで書くモチベーションは下がってしまったのですが、一応整理して「方法序説」のメモとして書いておきます。
「良識(理性)はこの世で最も公平に分配されている」、
学問の素は「普遍性」「実用性」「確実性」、
理性を導く規則「明証性」「分析」「総合」「枚挙」。
あと格率という慣れない言葉が出てきます。格率は処世術の基準のようなものです。
この格率は「法律と習慣に従う」「一度決めたら毅然と従う」「運命や世界の秩序を変えようとあがくより自分の考えを変える」です。
なんか3つめは仏教っぽいです・・・。
でも実は古代ギリシア哲学のストア学派の影響が大きいようです。
ちなみにスコラ哲学はギリシア哲学とキリスト教のごちゃ混ぜにした感じです。
やはり分かりにくくなりました。間違いもあるかもしれません。
興味がある方はその方面のブログやサイトを参照してください。
(参考:中央公論社)