時間の非実在性 J・E・マクタガート 2/2
道元の「行仏威儀」の中に、
古仏いはく、「那辺(なへん;あちら)の事を体取し、這裏(しゃり;こちら)に却来(もってくること)して行履(あんり)す」
という一節があります。
ある事象に対する安置を、那辺から這裏に却来すると言い換えられるならば、未来から現在に変わる瞬間はまさにそれに相当するのではないかと考えます。
この場合安置は企投と対比的な表現とします。企投は安置の鏡のこちらとあちらです。
ただ誤解しやすいのは未来は現在に留まるものではありません。瞬間的に過去へと移る。従って未来は先取りするものではないのです。先取りされたものは過去にこそあるのです。
企投と安置(または留置)はどちらも恁麼(いんも;そのように、このように)に当たります。
さらに噛み砕いて喩えれば、企投はハチ公前の正面に行くこと。安置はほぼ同時にハチ公の尾っぽのほうから来て正面から来た人に迎い合って立つこと。
この場合ハチ公の前に来た人も尾っぽに来た人も什麼(しも;何)に置き換えられます。
マクタガートの、時間の非実在性のA系列は未来であること、現在であること、過去であることを表わしますが、未来も現在も過去も固定的であるとしながら別の文言には未来から現在さらに過去に変わるとしています。つまりA系列には矛盾を孕んでいます。
J・E・マクタガート
A系列はB系列を支える論拠であるはずで、B系列がA系列を導き出す論理になることは本末転倒な誤謬が見られると思います。
一方ここで見るべきことは、ある事象に企投するにしても安置するにしても、現在ということを意識しています。現在とは瞬間的に表れて瞬間的に消える空虚なものです。
なので現在に実在感はあるものの、実在しているとは断言できません。未来も過去も実在しないわけですから、時間の非実在性は俄然強まります。
さらに大きな問題が生じます。発言と会話です。音楽もそうです。何気なく会話したり音楽を聴いたりしている行為は実在的ではなくて観念上の行為なのでしょうか。
これは理解不可能な事象かもしれません。
(参考:講談社学術文庫 その他)