昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

ベルクソン(脳の活性化)

 ベルクソンの本をぱらぱらめくっていたら、内容の深奥性は不明だけれど妙に澱みのない文章にあたりました。



 意識の諸状態の有機化について―自由

 真の持続と偶然性


 すなわち、時間は空間なのか。もしも私が地図の上に描かれた道を眼で追うとすれば、後戻りをして道がところどころで二つに分かれているかどうかを捜してみても何の不都合もない。しかし時間はふたたびたどれる線ではない。たしかに、一たび時間が流れたときにも、われわれは、その継起する各瞬間を互いに外在的なものとして思いうかべ、そうすることによって空間を横切る線を思う権利も持っている。しかしこの線が記号としてあらわすものが、流れつつある時間ではなく、流れ去った時間であることは当然のこととして変わらぬであろう。しかもこれは自由意志の擁護者も反対者もー前者は行われたのとは異なった行動をする可能性を肯定するとき、後者はその可能性を否定するときにー共にひとしく忘れてしまっていることなのだ。擁護者たちは次のように推論する、「道はまだ描かれてはいない。したがってどんな方向をとることもできる」と。これに対して次のように答えられるだろう、「一たび行動が果たされてしまった後でしか道については語ることはできないだろうということを貴方たちは忘れている。しかも行動が果たされてしまったとき、道はもう描かれてしまっているはずだ」-反対者たちは言う、「道はこのように描かれてしまった。だからその可能な方向とはどんな方向でもよいわけではなかったので、まさしくこの方向であったのだ。」これに対しては次のように答えられるだろう、「道が描かれる前には、いまだ道など問題になりようがなかった。というはなはだ簡単な理由によって、可能な方向も不可能な方向もありえなかったのだ。」このような粗雑な記号化の観念は知らぬ間につきまとっているが、それを取り去ってしまうと、決定論者たちの議論は、「行為は、一たび果たされたとき、果たされてしまったわけだ」という幼稚な形をとり、またその反対者たちは、「行為は、果たされる前には、いまだ果たされなかった」と答える、ということがわかってくるだろう。言い換えるなら、自由の問題は、この論争の後にも手つかずのままなのだ。それにこのことは容易に納得がいく。なぜなら、自由は行動そのもののあるニュアンスあるいは質の中に求められるべきもので、この行為と、この行為ではないものあるいはこの行為がなりえたかもしれなかったものとの関係の中に求められるべきではないから、である。すべてのあいまいさは、双方共に、思案を空間内の動揺の形で思い浮かべていることから由来するのであるが、実はそれは動的進行なのであって、そこでは自我も諸動機そのものも、ほんものの生物のように、不断の生成の中にあるのだ。自我は自己を直接的に検証するときにはあやまることのないものであり、みずから自由と感じまたそう言明する。しかしみずからの自由を説明しようとするや否や、空間を通しての一種の屈折によってしか、自己を知覚しなくなる。ここから機械論的性質をもった記号化が出てくるわけで、それは自由意志の定立を証明するにも、それを理解させるにも、またそれを論破するにも、ひとしく不向きなものである。





 前半までは何となく文を追っていけるんですが、途中からごちゃごちゃしてきて訳わからなくなってきました。
 でも脳の活性化にはいいんじゃないでしょうか。コーヒーに砂糖を入れて飲んでからこれを何度か読むとたぶん脳にはいいと思います。




               (参考:平井啓之)



×

非ログインユーザーとして返信する