昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

かいもちひの児

 笑い話「児(ちご)のかいもちひするに空寝したる事」を紹介します。



 比叡山に稚児がいました。大人の僧たちが夜、「かいもちひ」(ぼたもちあるいはそばがき)をしようということになり、横になっていた稚児はわくわくしながら完成を待っていました。


 どうやら完成したらしい。僧が「起きてください」と呼びに来てくれましたが、一度で返事をするのもいかにも待っていたようでみっともない、と子ども心に考えまして、もう一度呼ばれたところで目が覚めたようにしよう、と取っ掛かりを測っていますと、


 「寝させておいてさしあげよう。幼子は寝入っておられるのだろう」
 と他の僧が止めました。


 「ああ、何ということだ。早くもう一度声をかけてほしい」
 と思いますが、、僧たちがせっせと食べている音だけが聞こえてきます。


 たまらなくなった稚児は、かなり経ってから勝手に「はい」と言ったので、僧たちは大笑いしました。




 稚児は見習いの小坊主でありながら身分が高い場合もあり、僧から可愛がられた存在でした。
 かいもちひは直訳するとぼた餅ですが、時間の流れや地域的に見て、そばがきとする説が有力のようです。

 大昔の子どもでも小さな見栄を張るものだなと驚きと共に感心もしました。大昔の人、特に子どもは感性や感情のまま生きていたんだろうと勝手に思っていました。
 ですが、本音と建て前は時代や年齢を問わずあった、と言われればなるほどそうに違いないと思われてくるのです。


 見栄と書きましたがプライドとも美徳とも言い換えられます。ぼくたちが子どものころも遠慮とか無言の作法のようなものがあったと思います。それは形にならなくても心の中で遠慮があった。


 それがいつのころからか引っ込み思案はよくない、行け行けという気風になって、50年ぐらい経ってみたら子どもも大人も前へ前へと出てくるようになりました。


 有名人が学校や幼稚園に行くとみんな元気に返事を返して来ます。ぼくらのころあんなに元気があっただろうかと思います。


 もう少し引っ込み思案というかシャイだったような気がします。もちろん腕白坊主はいました。おとなしい子もいました。バラバラに分かれていました。今みたいにリミッターに掛けたような一定のボリュームで元気があったかなあと考えると非常に疑わしい。


 もう少し歳が行ってもロックコンサートの盛り上げ方が恥ずかし半分だったりしました。今の子は大学生でも中学生みたいにはしゃいでいます。


 一方でぼくらより少し上の世代の人は今の若い人は元気がないと言います。見るポイントが違うんだろうと思いますが、前に出るのは得意だが、我慢がきかなくなったのでしょうか。
 観点が違えば違って見えるのは当然かもしれませんが、よくわかりません。



 脱線しましたが、「児のかいもちひするに空寝したる事」は『宇治拾遺物語』の十二話です。鎌倉時代前半に成立したと考えられています。


                      (参考:伊東玉美)

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