江戸漢詩 頼山陽
頼山陽は師菅茶山の建てた神辺の黄葉夕葉村舎で塾講師を受け持っていました。やがて飽き足らなくなって脱出します。京都への憧れがあったからです。
菅茶山
頼山陽
茶山は目をかけていた弟子に逃げられて悔しい気持ちがあったのでしょう。京都の都会生活に馴染みだした山陽の詩を「女郎詩」(お嬢さんの詩)と嘲るようになります。
その軟派な詩が次に掲げる「嵐山に遊ぶ」です。ただしまだ江馬細香に出会う前で一見ほんの気の迷いで作ったような詩です。
嵐山に遊ぶ
春風吹雨過西溪
溪上游人路欲迷
女伴相呼聯袂去
紅裙半濕落花泥
(読み下し文)
春風、雨を吹き、西溪を過ぎ、
溪上の游人、路迷はんと欲す。
女伴あひ呼び、袂(たもと)を聯(つら)ねて去(ゆ)き、
紅裙なかばは濕る、落花の泥。
(現代語訳)
嵐山の花見の光景、あいにくの風雨になり、
女連れ同士が、道を迷いそうになって、名前を呼びあって行く。
その着物の裙(もすそ)には泥まじりの花片が貼りついている。
茶山は山陽の一時の気の迷い、流行かぶれと思っていましたが、次第に詩の特徴の一部となって山陽に定着していきます。
(参考:中村真一郎)