江戸漢詩 市河寛斎
市河寛斎は寛延二年(1749)江戸に生まれました。ゲーテと同じ歳です。
江戸漢詩は江戸と言っても近畿、京阪、中国地方つまり西日本のほうが隆盛だったようです。江戸生まれの柏木如亭でさえ江戸は居心地が悪く京都で活動しました。
江戸(関東圏)では大田南畝や山東京伝など狂歌や戯作で目立つ人が多く、漢詩で優れていたのは大窪詩仏(常陸出身)と言われています。詩仏は寛斎の「江湖詩社」出身です。詩仏は寛斎を継ぐ形で「詩聖堂」を創設します。
寛斎も詩仏も漢詩に優れていて後年頼山陽も著作上で真価を称えています。
示亥兒
烘窗晴日氣如春
讀課牽眠欠且伸
喚婢休嗔遲午飯
夜來多是雨沾薪
(読み下し文)
亥児(がいじ)に示す
窓を烘(あぶ)る晴日(せいじつ) 気 春の如し
読課 眠りを牽(ひ)いて 欠(あくび)し且つ伸(せのび)す
婢(ひ)を喚(よ)びて嗔(いか)ることを休(や)めよ 午飯遅しと
夜來 多くは是(こ)れ 雨 薪(たきぎ)を沾(うるお)すならん
寛政九年の作。七言絶句。韻は上平声十一真(春・伸・薪)『寛斎先生遺稿』巻二。
(注)
示=示し教える。
亥児=寛斎の嫡子三亥(みつい)のこと。生年の干支が己亥、生まれ日が亥、生まれ時刻が亥の刻であったため三亥と名付けられた。後年名高い書家になる市河米庵。
烘=あぶる。暖かな日の光が照らす。
読課=日課にしている読書。
牽眠=眠気を催す。
夜來=昨夜。
多是=おおかた、たぶん。
沾=うるおす。湿らす。(燃料の薪が湿っていて火付きが悪く、なかなか飯が炊けない。)
(現代語訳)
晴れた日の太陽が窓を照らし、冬ながら天気はまるで春のようだ。おまえは日課の読書にかかっていても、つい眠気を催してあくびをする。そんな時、下女を呼んで、昼飯の遅いことを怒ったりしてはいけない。昨夜は雨が降って、多分飯を炊く薪を湿らせてしまったのだろうから。
三亥(米庵)は寛斎が特に期待をかけていた息子で、書家として勉強に熱を入れていて、翌々年寛政十一年には二十一歳で小山林堂(しょうさんりんどう)という書塾を開き、書の教授を始めることになります。
寛斎は中年以降生活のために就職して、雪の富山を四回も単身赴任の暮らしをさせられていたので、家庭の味に飢えていました。
病気を理由に休職し江戸に戻り一家団欒をしみじみと愉しんでいました。この詩もそういう愉しみの中のユーモアまじりの諫めであったと思います。
(参考:岩波書店中村真一郎揖斐高)