昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

江戸の文人 大田南畝

 大田南畝は1749年生まれ、蔦屋重三郎は1750年生まれ、山東京伝は1761年生まれとほぼ同年代に生きた文人です。


 TSUTAYAは蔦屋重三郎に関係ないとのことですが、あやかったそうです。
 ちょっと上の世代に唐来三和1744年もしくは1749年、恋川春町1744年、木村蒹葭堂1736年、上田秋成1734年生まれがいます。(ちなみにマルキ・ド・サドは1740年生まれ)


 以前唐来三和の本は持っていましたが、引っ越しのどさくさに行方不明になりました。バブルのころ書店で立ち読みし、何となく面白そうだと買ってみましたが、積ん読になり放置していました。もしや本棚の奥に眠っているかもしれません。


 大田南畝は狂歌や戯文で有名ですが、漢詩文も並々ならぬ学才があったようです。
 しかもただの漢詩ではなくパロディになっていました。


 まず原詩の杜甫の「貧交行」を掲げてみます。


 翻手作雲覆手雨
 粉粉軽薄何須数
 君不見管鮑貧時交
 此道今人棄如土


 手を翻せば雲と作り 手を覆せば雨
 粉粉たる軽薄 何ぞ数ふることを須(もちひ)いん
 君見ずや 管鮑貧時の交り
 此の道 今人 棄てて土の如し


 (注)菅鮑=管仲と鮑叔のような親密な交わり(列子に記述あり)



 これに対して南畝は「貧鈍行(ひんどんこう)」を作りました。


 為貧為鈍奈世何
 食也不食吾口過
 君不聞地獄沙汰金次第
 于〇追付貧乏多


 貧すれば鈍する 世を奈何(いかん)
 食うや食はずの吾が口過(くちすぎ)
 君聞かずや 地獄の沙汰も金次第
 〇ぐに追い付く 貧乏多し


 なお、〇の部分は「てへん」に峠の右側だけ「上下」と書きます。読みは「かせ」ぐ、もしくは「ろう」「もてあそぶ」です。中国で弄する(の俗字)意味でしたが、日本では「かせ」ぐ意味に使われるようになりました。


 杜甫の詩の読解・注釈は服部南郭の『唐詩選国字解』(安永九年)です。南畝は南郭の孫弟子です。


 大田南畝は牛込仲御徒町に生まれました。現在の新宿区中町です。ここは神楽坂からほど近い地域です。ただ、住まいは北町41番地であると浜田義一郎によって記述されています。南畝の住居跡を知った尾崎紅葉は明治23~24年に住んだというのです。その後、江見水蔭(えみすいいん)も住んだということです。


 中町と北町は道一本ちがうだけでかなり近いです。また横寺町に現在もある紅葉邸跡も北町から2、3分のところです。大久保通りの横断歩道を渡って袖擦坂の階段を上がれば横寺町です。


                 (参考:「反骨者大田南畝と山東京伝」小池正胤)

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