昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

法然 ①

 保延7年(1141)春、美作国(みまさかのくに)地方豪族に夜討ち事件が起きました。漆間時国の屋敷を稲岡庄の預所(あずかりどころ)明石源内武者定明が襲ったのでした。

 時国が息をひき取るときに息子勢至丸に残した言葉は、
 「仇討ちをしてはならぬ。またうらんでもならぬ」
 でした。うらみを晴らしても相手の遺児がまた仇討ちをして世々その仇は尽きない、というわけです。

 勢至丸(のちの法然)は菩提寺の観覚のもとに引き取られることになりました。学問に優れていたので観覚は十五歳の勢至丸を比叡山の持宝房源光に預けましたが、源光も勢至丸の才能に気づき功徳院皇円に預けられました。

 そこで剃髪して出家しました。天台大師智顗の『天台三大部』をわずか3年で読破しました。
 いろいろ悩んで結局下山してひじりとなりました。このとき法然と名乗るようになりました。

 そして広谷で遊蓮房円照と出会って親しくなります。

 吉水の庵で念仏を教えているときも遊蓮房が極楽浄土に往生した例を挙げて説きました。訪ねてくる人が多くなり増築して、これが知恩院の原型になりました。


 平重衡の軍は興福寺の六万の僧兵らと戦い東大寺大仏殿や興福寺、東大寺の伽藍、僧房を焼き討ちしました。

 平家は結局源氏に敗れ重衡も捕らえられましたが、寺を焼き討ちにしたのを反省し無間地獄に堕ちるのを恐れて法然のもとを訪れます。
 法然はただ南無阿弥陀仏と唱えることを教えます。


 重衡は関東に護送されて源頼朝の命により南都衆徒に引き渡されて処刑されました。首をはねられる時も念仏を唱えていたと伝えられています。


                            (つづく)


                           (参考:法然入門、etc)

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