昭和レトロな赤坂の思い出

昭和レトロな思い出を書きます。主に赤坂中心ですが、東京近郊にわたると思います。
趣味の話も書くつもりです。

井の頭線 小田急線 京王線 東急線

 井の頭線は現在京王電鉄ですが、昔は東急井の頭線でした。(戦後まもないころまで)それどころか京王線も東急でした。(未確認ですが小田急線もそうかもしれません)


 赤坂に住んでいたころは、渋谷駅で井の頭線の案内板を見かけると山にでも行く電車なんだろうと思っていました。


 昭和30年代は年に一度ぐらい東横線で親戚の家がある「祐天寺」まで乗って行きました。渋谷から一個めの「代官山」なんて誰が降りるんだろうと思うぐらい寂しい駅でした。でも戦後まもないころは間に「並木橋」という駅があったようです。明治通り沿いのバス停近くです。


 東横線は大人になって乗っても一番リラックスできる電車でした。乗客がラテン系な感じでゆったりのんびりしています。東急線と言わず東横線と呼んでいました。


 井の頭線沿いに住むようになって一番ショックだったのは踏切と道路の端にあるどぶ川です。(昭和42年ごろ)でも後年小田急や京王を利用するようになったら井の頭線が一番リラックスできました。車両が軽そうで発車や停車のとき大げさに揺れないのです。


 小田急は乗ってるとイライラします。最寄駅が各駅停車駅だったので各駅に乗ると悲惨です。「東北沢」で待ち合わせします。車両が重いのか、それほどスピードが出ていないのに横揺れがひどい。小田急は学生のマナーも悪かったです。


 京王線も嫌いでした。何となく乗客が陰気でした。電車のスピードは群を抜いて速いのですが、各駅停車駅ではなかなか電車に乗れません。「上北沢」「八幡山」「蘆花公園」に住んだ人なら判ると思いますが、なかなか電車が停まらず快速、急行、特急とやり過ごし、やっと乗って新宿に着いたころにはもう日が暮れています。神保町や秋葉原に行くときは「笹塚」で都営新宿線に乗り換えます。


 マナーは新宿始発の小田急線に乗るときは椅子取りゲームの様相です。でも「下北沢」駅で降りる客はわりとのんびり降ります。井の頭線は逆で、乗るときは紳士なのですが、「下北沢」で降りるときは我先にガーって降ります。


 初めて東急大井町線に乗った時はびっくりしました。若い女性のイヤリング率が高い。サンダル率も高め。大井町線の「九品仏」駅は映画「乳母車」石原裕次郎、芦川いづみ主演(日活)で登場します。目蒲線はあまり記憶にないです。現在は目黒線ですね。


 東急玉川線は玉電と呼ばれていました。新玉川線の呼称の時代もあったと思いますが現在は田園都市線でしょうか。
 中学のクラスメイトの家に行くのに「用賀」まで玉電に乗っていったことがあります。昭和42年ですが、用賀はまだ田畑だらけでした。インドからヨガが伝わったので用賀というんだそうですが、ホントかどうか判りません。


 世田谷線という路面電車があります。「松原」駅がありますが、確かドラマのロケで使われたと思います。ここは昔「六所神社前」で赤堤の住宅街が近くです。
 タクシーの運転手さんは”玉電松原”と呼んでいますね。三軒茶屋から出ているからそう呼ばれたのか不明です。ぼくらの感覚では玉電は渋谷から出ていた幼虫の青虫みたいな車両の玉川電車、すなわち玉電です。世田谷線を玉電と呼ぶのは違和感があります。
 「下高井戸」の手前に「七軒町」という駅もあったようです。「下高井戸」は昔「日大前」でした。


 京王線「新宿」と「初台」の間に「新町」「西参道」という駅が昔ありました。さらに「初台」と「幡ヶ谷」の間に「幡代」という駅がありました。


 小田急線「南新宿」と「参宮橋」の間にも駅がありました。


 井の頭線の「駒場東大前」は「一高前」でした。「新代田」が「代田二丁目」、小田急の「世田谷代田」は「世田谷中原」でした。

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