日比谷公園 ②
しかし、当時の東京市の担当者から思わぬ横やりが入りました。
まず、門に扉がない、夜、花が盗まれる、江戸城のお濠を利用して作る池は身投げの名所になると困る、というようなことでした。本多は池の石垣の下に浅瀬を作り、直接水に飛び込めないようにすることでこの問題を乗り切りました。
門の扉のことは断固譲りませんでした。皆が公園を愛し花など盗まないくらいの公共心を育てなくてはいけないと力説しました。
こうして日比谷公園は明治36年6月1日開園しました。本多の設計から三年後のことでした。
園内に縦横に遊歩道を廻らし、色とりどりの花を咲かせる花壇を配置しました。人々は西洋から取り寄せた花々に間近で触れ合えるようになっています。
中央付近の高台には音楽堂を予定し、やがてここには舞台が作られ、陸軍と海軍の軍楽隊が交互にコンサートを行いました。当時は鹿鳴館の舞踏会など一部上流階級だけのものだった西洋音楽を一般庶民も楽しめるようになります。
西洋の公園ではレストランも当たり前です。「松本楼」でカレーライスを食べコーヒーを飲むのが一番のハイカラとなりました。 (つづく)