旧約聖書:アブラハムとイサク
旧約聖書の中にアブラハムが息子イサクを伴ってモリヤの地へ向かうシーンがあります。その際若者二人にまたイサクと戻ってくるから、と告げます。
いわゆるイサクを神に捧げようとする問題のシーンですが、『聖書』の翻訳で有名な関根正雄のご子息関根清三東大教授が放送大学の授業で述べていたことをまとめます。
アブラハムが刀を振りかざしたときに神は「もうお前の信仰心はわかったから」と刀を下げさせ、アブラハムは用意してあったベエェベエェと鳴く牡羊を捧げます。
ここをカントはこの神は本当の神であったかとするどく問い、そんなことを言う神は本当の神ではないと、アブラハムは問い返すべきだったと厳しく論述しています。
キルケゴールとデリダは細かいところは難しいものの、けっこう肯定的な解釈でした。(くわしくは関根清三氏の著書または放送大学の印刷教材参照)
西田幾多郎の解釈が一番厄介です。善なる神は絶対だが、悪魔にまで下がればそれも神だと解する。
アブラハムは表向きは神への信仰心でいっぱいでしたが、息子イサクが生まれたときからイサクを愛するあまり神を少し忘れていた。イサクが神のようになった。それで神はアブラハムの一番痛いところを突いてきた。イサクを捧げよ、と。
このシーンでアブラハムが寡黙なのもそういう「しまった!」的な心理のせいではないか?と。
神は悪魔の下の下まで降りてアブラハムを苦しめて試したのだ、という解釈。これを称して西田は「絶対矛盾の自己同一」といいます。
ただこのシーンで関根教授と全然角度の違う見方もあります。
モリヤに向かうとき若者にイサクと戻ってくるからとアブラハムが言ったことです。いや、イサクと戻ってくるのは本当で、イサクを捧げなくて済むとアブラハムが認識していたのであれば神のたくらみを分かっていたのではないか。モリヤにいた牡羊の存在にアブラハムも気づいていて、神がアブラハムを試す気持ちをあらかじめ悟っていたわけで、それはそれで問題です。