「わかれ道」と「パピヨンの贈り物」
前回からのつづき、
後に樋口一葉の『わかれ道』を読んだときに単純に「捨吉」を想い出した。大人と子どもの会話だけで構成されているので似ていると思った。
『わかれ道』も短編で雅文体というほどのものでない。現代語の感覚で読めるので一読をおススメする。これも青空文庫もしくはネット上に挙げられてもいるので無料で読むことができる。
『わかれ道』はお京と吉三の他愛ない会話から始まる。お京は貧乏な一人暮らし、お針仕事で食いつないでいる。吉三は傘屋の吉と言われて奉公人である。まだ未成年。吉(吉三)はお京を実の姉のように慕って、晩にも焼いた餅(おかち)をねだりに来る。
お京がどこかの妾になるという噂は吉の耳にも入っていた。吉は自身の境遇を嘆く。橋の下で拾われてきた、とか角兵衛獅子の子どもだろうとか、麻布の新網で生まれたとか、いろいろとあらぬ想像をめぐらす。お京は吉がどんな境遇の出自でもお前さんを実の弟のように思っているから、どこへ行こうと戻ったときにはいい着物を買ってやるとか慰めの言葉を掛ける。
だが、吉はお京の言葉に疑念がある。生活に困った女が妾奉公になって、それを吉は金持ちの馬車が迎えに来るという比喩で言うのだが、お京は迎えに来るのは火の車だよと交わす。
ここまで読むと『捨吉』の語り手と捨吉の関係とは全然違う。だが、作者三好十郎は一葉が死んだ数年後に生まれているから当然『捨吉』は『わかれ道』より後だし、三好が『わかれ道』を読んでいる可能性は大である。
捨吉は自身の歳も分からない捨て子だ。吉も捨て子だ。そういう境遇と対話形式の構造は何らかのヒントを得たと思ってしまう。
で、『わかれ道』は吉の境遇は全然寓意的な意味合いを持たない。それどころかお京は腹の中で妾になることを決心しているのだ。それは吉を通して読者に伝わってくる。
ただ、最後の吉のセリフがいささか突飛で新派でもなかなか見られないような歌舞伎かと思わせるような、え、そういう終わり方?という唐突感は否めない。
湯地孝の『樋口一葉論』でも辛口の評が展開されている。しかし湯地は何の拍子か、お京のことをお糸と書いている(笑)。これは頭の中で荷風の『すみだ川』とごっちゃになったのではあるまいか。
『すみだ川』のお糸は葭町の芸者になるのだが、幼馴染の長吉は納得がいかない。長吉にとっては初恋の相手である。
最後に映画「パピヨンの贈り物」はフランス映画。わりと最近の映画で老人と子どもの会話が主たる構成。これはレンタルで借りて見た。その後DVDを買った。
老人は蝶を研究する生物学者、女の子と蝶を探す旅に出かける。女の子のシンプルな質問に老人が答えていくのだが、シンプルだけに哲学的な領域に達する。
数年見ていないので細かいところは忘れたが、女の子が穴に落っこちてヘリコプターが発動され、学者の老人は誘拐の容疑を掛けらる。
それは表面のストーリーだが、老人役の俳優のインタビューでも語られているように、いくつになっても子役には負けてしまう、これはそのまま老学者が子どものシンプルな質問に困惑する、そのありようが哲学的な課題を提言する作品であると暗に匂わしているように思えた。