ダジャレのすすめ
ダジャレは気楽につくるものだ。意味を詮索するものではない。平安朝文学とか江戸文学のダブルミーニングの掛け言葉より何ランクも下の遊びである。たまたま意味が生じる場合もあるが、それは運がよかった、ということ。
過去ブログに挙げた駄じゃれにシェアされているものもあるかもしれない、と断り書きしたのは知らないところで広まっている場合、オリジナルは自分であるという表明である。
ほぼ同じ時期に自然発生的に生まれたダジャレも無くはない。というのも時事とかスキャンダルに関したダジャレとかもあるからである。
例えば、
月に代わって押尾起用
などは時節限定のものである。
それと一周廻って戻ってくるものもある。
例えば
着の身着のまま木の実ナナ
とかである。
意味を詮索されたことがある。
キャタピラーなぎさ
と言ったらキャタピラーって何?と問われた。(リアル社会の訪問看護師に)
はっきりとは判らない。なんとなく機械っぽい硬い言葉の響きと、片平なぎさのイメージを重ね合わせただけである。重ね合わせられないから可笑しいのである。
一方で、他人の作ったダジャレで傑作だと思うのは覚えている。例えば、
「憎いアンティーク調の顔めがけー」(M師匠作品)
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常のいびきあり」
このあたりはみんなでシェアし合っているので原作者不詳である。
派生的に「諸行無常の地引網」とか出てくるともう誰が誰だかわからなくなる。同じダジャレが二度三度と出てくることがあるが、みんなが気に入っていればお互いゲラゲラやっていた。
「世にもキムヨナ物語」(ハンドル名不明:ブログじゃないのでハンドル名とは言わないかもしれないが)これも時節ものである。
「親しき仲にも礼金あり」(名前失念)
「おいらにゃー毛ボーボーの血がさわーぐ」(Pコさん)
これらは某アメーバピグのダジャレ広場の思い出である。しばらく行っていない。
さすがに飽きた、というか遊び心が減ったから、病気のせい。
ダジャレを気軽に作る方法:
決まり文句を何回か唱える(心の中で)。それで部分的に言葉を入れ替えるだけ。意味はほとんどない。バカバカしいからダジャレであって何となく笑えればいいのではないか。予定調和的なリラックス広場なので意味を詮索されると息苦しくなる。
君とぼくとでヤンマーだ。を何回か唱えると君とぼくとでミャンマーだ、
が出てくる。
くだらないから笑える、という要素もあるし、感心させたらそれはそれでいいかもしれないが、あまり得意げに発表すると空気は冷える(自省を込めて)。
學門のすすめ、と何回か唱えて、學門のスルメ、とやる。
これでやれば質より量を生み出すきっかけになる。
意味なし芳一
以上です。